本日記は、2008年度、苫小牧青年会議所設立55周年を記念して企画いたしました。

 2008年度の基本方針にある、「人とのつながり」という言葉、そして、理事長方針にある、「古きを温ね、新しきを知る」という温故知新の精神をもってJC活動をしていきたいという願いが込められています。OB諸氏の皆様方に青年会議所への思いを熱く語っていただくきます。

 本日記はリレー形式で、OB会長の柏木先輩からはじまり、次の投稿者をご紹介いただきリレーしていきます。
メンバーの皆様、先輩達からのメッセージを胸にJC活動に邁進していきましょう !!

2009年10月02日

OB徒然日記 第16号

1998年卒業 古木匡司先輩

 山崎さんからバトンを引き継ぎます古木匡司です。苫小牧青年会議所には、1989年に入会させていただき、1998年卒業いたしました。ちょうど10年お世話になったことになります。私にとってこの10年間は、恥ずかしいのを承知の上で言いますが、青春そのものだった気がします。
 さて、「OB徒然日記」の寄稿文を書く前に、お詫びをしなければなりません。依頼を頂戴してから約一ヶ月間放置してしまいました。心の片隅では、早く書いてしまわなければと思いながらも、文才も根性も無いためこのような不始末を起こしてしまいました。関係各位、特に何度もご連絡をいただきました担当の松本さんには、ご迷惑をお掛けいたしましたこと、心よりお詫び申し上げます。
 こうした悶々とした日々を過していた間に、9月オープン例会に出席する機会をいただきました。「市民参加条例」をテーマに行われたパネルディスカッションに触れてみて、久しぶりに青春時代に戻りました。例会の締め括りに岩倉市長よりJCの大先輩として現役メンバーの皆さんにエールが送られました。それは、ご自身が現役バリバリだった今から二十数年前、今回の例会テーマにあるような市民参加条例の影も形も無い時代に、「苫小牧青年団体協議会」なる市内の青年が集う市民グループを青年会議所がその核となって立ち上げた際、市に提言を行いその具現化された一つにオートリゾートアルテンがあるという実例の紹介とともに、だからこそ条例が整った今、JCは持ち前のフットワークとヘッドワークを駆使して、苫小牧市に提案や意見をどんどん出して欲しいというものでした。岩倉大先輩の熱弁に引き込まれながら、「JCってやっぱりいいな。」という気持ちが大きくなりましたが、岩倉先輩のエールを受けたメンバーにちょっと元気が足りないなと感じられたのは少し残念でした。
 前置きが長くなりましたが、これから昔話を少ししたいと思います。この「日記」の前寄稿者山崎さんに、すっかりLOMの暴れん坊の様に紹介された私ですが、あの件で出てくる「これでいいのか!」なる発言は、実際本当にあったかどうかは定かではなく、いわば山本高広が真似をしている織田祐二の「キター!」みたいな物と考えてくださって良いと思います。何はともあれこの年1993年は、理事長、実行委員長の下LOM一丸となり全道大会主管という大きな事業に取り組んだ年であり色々な出来事がありました。当時私は専務理事を務めさせていただいておりましたが、何せ大会主管は25年振りのこと、物事が暗礁に乗り上げるたびに、若さから、青さから暴走しメンバーに迷惑掛けることもしばしばあったかと思います。その様なことから前述の「これでいいのか」発言事件は、真偽不明の逸話としてごく一部(一人)の方がいまだにおっしゃっているのだと思います。
 全道大会について書き始めると、四部構成の十回連載ぐらいになってしまいそうなので別の機会としまして、今回はこの年あったもう一つの大きな事業についてご紹介致します。
 1993年は、苫小牧青年会議所創立40周年でした。大会主管の陰に隠れる様に執り行われましたが、記念式典並びに記念懇親会の開催、記念誌の発行、そして市民向け記念講演会の開催と大きく三つの事業を行いました。先の二つは、概ねスムースに進みましたが、記念講演会についてはなかなか想うように進みませんでした。それは、講師選定の問題です。私たちは、年度当初よりこの記念講演会の講師として、前年9月にスペースシャトルエンデバーで宇宙飛行を果たしたばかりの毛利衛さんをと考えていました。
 しかし、日本中が『毛利フィーバー』真只中です。私たちJCは、苫小牧市との調整(ここにもドラマがありました)に時間を要したこともあって手を挙げるのが遅くなってしまい、結果毛利さんを講師とする記念講演会の年度内の開催は難しいという流れになっていました。当時の理事長、田中正彦さんはそれでも諦めませんでした。正確に言うと、講師には毛利衛さんしか考えられなかったし、考えていなかったというのが実情です。何百件もある講演依頼の中で、私たち苫小牧JCの依頼を上位に上げて、何とか9月から10月にかけて開催できる様JCの豊富な人脈を頼りに、どこかにコネは無いかと奔走しました。その様な時に辿りついたのが、日本宇宙少年団です。漫画家の松本零士氏が理事長に就き、1986年に設立されております。この日本宇宙少年団を窓口にすることで、話が通りやすいというのです。そして何と苫小牧にもこの分団があるというではありませんか。灯台下暗しとはこの事、いやただの勉強不足だったのかもしれませんが、何はともあれこの情報に飛び付きました。当時苫小牧分団でリーダーをしていた藤島豊久先輩(現在は副分団長)に相談に行くと、適切なアドバイスを頂くと共に日本宇宙少年団(YAC)のレクチャーもたっぷり受けなければなりませんでした。このレクチャーでさらに驚きの事実を知ることとなります。YAC苫小牧分団は、苫小牧JCが創ったというのです。いや正確に言うと苫小牧青年会議所がその活動の中心となった苫小牧青年団体協議会が提唱したことで設立されたというのです。そして1987年の苫小牧分団設立時には、苫小牧JC主催の講演会で松本零士氏が講師をされているのです。本当に自分自身の勉強不足を恥じ入るばかりでした。ところで、毛利衛さんを迎えての苫小牧青年会議所創立40周年記念講演会は、9月25日苫小牧市総合体育館に主に小中学生三千人を集めて無事開催することができました。YACの存在に感謝したのは言うまでもありません。それが高じて、私自身がYACのリーダーになってしまう顛末もアナザーストーリーです。ただ昨年、『洞爺湖サミット』関連事業として行われたYAC苫小牧分団主催の「宇宙サミット」では、たくさんのJCメンバーにお世話になりました。改めまして御礼申し上げます。
 だらだらと綴ってしまい、何を皆さんに伝えたいのか解らなくなってしまいすみません。ただどうして40周年記念事業のことを書く気になったかというと、9月例会に出席して、岩倉市長の言葉の中から、「苫小牧青年団体協議会」というキーワードが出てきたからです。「日記」の原稿依頼を頂いてから、本当にたくさんの出来事と思い出のあった10年間のJCライフの中で、何に的を絞って書けば好いのか迷いに迷っていた時に、キーワードが入ってきました。
 この「OB徒然日記」の趣旨である、温故知新の精神はすばらしいと思います。私も改めて実感しました。そして出来ることなら、日記という寄稿だけではなく、ほんの偶にでいいですから、直接先輩たちから話を聞いてみてください。きっと「目から鱗」ハッと気がつくことが、いっぱいあることでしょう。自分もその立場だったときは、ちょっと鬱陶しいかったですけれどね。
 これ以上書いていくと、ますます「ウザい」OBになりそうですのでこれにて終了とさせて頂きます。乱筆乱文お許し下さい。ありがとございました。

古木先輩 本当にありがとうございました! JCのまちに対する想いや、JCのネットワークのすごさに、改めて感心させられるばかりです。
中でも松本零士さんや毛利さんとの繋がり、そして小・中学生3千人の来場者を呼び込むあたりは圧巻です! 現役一同さらに志高く持たなければなりませんね。
次回担当は、1992年卒業されました藤島豊久先輩です。
どうぞご期待ください。
posted by OB日記 at 21:58| 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年08月13日

OB徒然日記 第15号

1996年卒業 山崎 肇

 JCについて何でも書いてください、と依頼をいただいてから今日7月25日まで、実はまったく一行も書いていません。一度ならず、頭の中ではあれこれ思い起こしてみましたが、どうも人に聞かせるほどのことはないのです。自分で行動して、自ら満足していることばかりで、書いて知らせるほどのことは見当たりません。
と思っていたら、ふと思い出したのが彼の熊谷卓先輩にもご同行いただいた、図書館調査ツアーです。これは私一人でしでかしたことではないので、同行いただいた方々に、今更ながらの感謝の意を込めて書いておきたいと思います。
 あれは、私が二度目の委員長を務めさせていただいたときです。もう20年も前のことになります。市立図書館の運営に対して提言する、との企画を立てその前提として他都市の状況を調査しようということになりました。対象地は何故か道外、仙台と八戸、そして青森ついでに函館ということにしました。その選定の経緯は覚えていません。いずれにしても、この4ヵ所を最短の時間、最小の費用で訪問することにしたのです。
 行程は夜8時頃発の北斗星で仙台まで行き早朝着、市立図書館を視察、折り返して八戸で下車、ついで青森に向かいここで一泊、夫々図書館を視察、翌朝青函トンネルを経て函館で視察、午後苫小牧に帰着という、車中一泊宿で一泊、雰囲気的に一泊二日というリーズナブルな旅でした。苫小牧駅で当時の渡辺健治理事長に見送っていただき、また餞別もたくさんいただき、懐も暖かく前途洋洋、勇躍旅の途につきました。
 同行してくれたのは、先にも書いたとおり政策室長の熊谷卓さん、委員会メンバーの橘さんと赤川さんでした。そういえば、赤川さん結婚おめでとう!
 正直なところ、どこの図書館もたいしたものではありませんでした。今でも思い出すのは、青森市図書館の隣が棟方志功記念館だったことと八戸の駅が町外れだったこと、函館の図書館が古い木造で貧弱だったことくらいです。
 ただ、どこの図書館かは忘れましたが、個人が不用になった本の交換会を企画していたり、開館時間を働く人のために夜九時まで延長していたりと、事前に読みたい本を頼んでおくと貸し出し可能時に連絡をくれたりと、様々に工夫をこらしておられ、そういうことを提言書の一部に記載したことを覚えています。
 百聞は一見にしかず、と言いますが、自らの目で視ると読むのとは大きく違い、本当にたくさんの情報を得ることができることを実感しました。また青森では熊谷室長の手配で一席設けていただいたのですが、ここで私は初めて「藤壷」という黄緑色の物体を食しました。その磯臭さと鮮やかな色は忘れることができません。
 さて、委員長として面白かったことに例会運営がありました。月二回の例会はJC運動の中でも非常に大きな意味をもっており、理事会や委員会と同様、これがなきゃJCじゃない、と言っても過言ではないものです。
 特に委員会一丸となって企画運営する手作りの例会は、多少の出来不出来はご愛嬌で、なかなか味のあるものでした。勿論、練りに練られた講師例会も悪くありません。テーマと人選を突き詰め、事前打合せを密にし、当日より多くのメンバーが出席するように努力する、ということになるとこれも大変なことです。ただトレーニングとして考えると、関われる部分が少ないような気がします。好みもあるとは思いますが。
 まあ、いずれにしろ例会企画案を理事会に上程するのは良い勉強になりました。趣旨から具体的内容まで、頭の中話の中では分りきったことながら、いざ説明するとなると表現力のなさを思い知る、ということの繰り返しで、何度も室長や副理事長に添削されてようやく上程。理事会では悪意善意の質問にさらされ、審議段階で否決は珍しいものの、変更も多くあり何度も再考しては書き直したものです。
 しかし、これもそれも全ては修練です。その繰り返しから友情も生まれ、奉仕の精神も育まれたのでしょう。建前だけでは生きていけないかもしれませんが、本音だけの人生はなんとも味気ないような気もします。人生の中で最も実践的なトレーニングの必要な時期、また考え方を確立させつつあるときに、JCで経験したことは実に有益でした。
 今でも少なからず元メンバーにおつきあいいただいていますが、あの頃の運動、行動の思い出一つ一つが共通言語のような気がします。
 だらだらと書いてしまいました。最後にもう一つ。あの頃、よく議論したことに例会やその他の事業出席は義務か権利か、というのがありました。
 私は、入会資格審査で参加意思を確認され肯定的な回答をしている以上、論理的には義務であり、しかし無理強いされ不本意に参加しても意味がないことから、感情的には権利だと考えていました。
 今は、出られるならできる限り出たほうが良い、というのが経験を踏まえた上での結論です。それは参加出席は義務でも権利でもなく、いろんなことに気がついたり、能動的に視て理解する「機会=チャンス」だと思うからです。
 各種大会や青年経済人会議、環道都経済圏会議、ブロック協議会、地区協議会といろんなところに出してもらいましたが、全く無意味だと思ったことはほとんどありませんした。行くまでは億劫でも、その場に至ると様々な情報を得ることができます。時間が許し経済的に融通がつくなら、参加することをお勧めします。ですが、時間が許さず且つさほど意味も感じないなら無理することもありません。自由意志で行動すべきです。誰かに強要されていやいや参加するなんてことは愚の骨頂だと思います。
ということで、これで筆を置きます。次は卒業10年を経て未だにJCへの思いが熱い男、全道大会主管の会議では結論が出た後で「これでいいのか!!」を連発して手を焼かせた、古木匡司さんにいやでもバトンを渡します。


山崎先輩、貴重なご感想ありがとうございました。JC活動の楽しい事だけが経験なのではなく、過去を振り返れば辛い事も経験になっている事が伝わりました。JCで辛い事でもたくさん経験していこうと思います。
次回は、山崎先輩よりご紹介を頂いた古木匡司先輩です。お楽しみに!!
posted by OB日記 at 08:28| 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年07月10日

OB徒然日記 第14号

1990年卒業 熊谷 卓

 1982年の川田理事長の年、前期入会の私はその前年の1月に3度目の転勤で苫小牧に赴任しました。上の子が5歳で3番目の子が1歳の時です。前任者が会員という事で業務引継ぎの色彩の強い入会でした。1984年道南ブロック出向から始まり正副委員長、室長そしてブロックスポーツ大会の応援団長と、企業出向メンバーとしては破格の役割を与えられ皆様の協力を得て無事に卒業する事ができました。JCメンバーへの感謝の気持ちで一杯です。
 子供が生まれてから、自分は今度も何度か転勤して歩くに違いない。そうすると私の子供達には故郷(田舎)は存在しなくなるのではないかと思っていました。JC活動に最初はイヤイヤながら参画しているうちに、神社の例大祭・港祭り・3LOM合同サマーキャンプ・スケート祭り等々の各行事へのお手伝いの様子を帰宅してから子供向けにおもしろおかしく話して聞かせてやるようにしておりました。子供達が乳幼児から学童になる頃です。そして様々な街の行事に父親が参加している事を子供達が見て知っていれば、子供達にとって苫小牧は故郷になるかも知れない。故郷らしい思い出のある街に苫小牧がなるかも知れない。そんな思い出を作ってやる事ができたらいいなと思うようになり、後半は時間の許す限り各事業に参加するようにしました。そんな訳で私の11年間の苫小牧は9年間のJCの思い出と等号(=)で結ばれています。
9年間の思い出といえば・・・・創立30周記念式典での道内初のレーザービームによる演出とその最中の次男の交通事故(軽症)、大学誘致運動では全国の駒女短OGへの署名依頼と署名簿を駒大本部へ持参し苫小牧に4年生大学開設をお願いした事、環道都圏会議(道央10LOMによるブロックを超えたJC運動体)への4年間連続出向と10市町長を招聘してのサミット、名古屋での世界大会、海洋少年団全国大会、宇宙少年団(YAC)世界ジャンボリー(アメリカ)参加、現役会員数が160名近くになり道内2番目の大LOMになった事、そして何人かのメンバーの結婚式の発起人に名を連ねた事などたくさんあります。
 しかし残念な思いでもあります。現役メンバーによる大事件(最初の除名処分)や交通事故により仲間が亡くなった事です。
JC卒業の翌年サラリーマン生活にピリオドを打ち苫小牧を離れました。自分自身がまだ若くて飛んだり跳ねたりできるだけの体力があった時期、子育ての重要な時期の第一段階とピタリと重なった時期、それが私の苫小牧時代=JC時代でありました。
 現在私は札幌手稲区で建築板金業を営んでおります。苫小牧へは1〜2日は出向きますが、時間距離が短い割に苫小牧は遠い街になってしまいました。でも自宅の近くにある星置スケート場(アイスホッケー専用リンク)の駐車場に「室蘭」ナンバーの車を見かけると「あの車の中には、トレーニングの為にと苫小牧から子供を乗せて来たメンバーもいるんだろうな〜」と感慨深く見ております。


 熊谷先輩、貴重なご感想ありがとうございました。現役時代にものすごく頑張って活動されていた事に大変関心致しました。OB方々エネルギーを見習って、自分達も頑張っていこうと思いました。
次回は、熊谷先輩よりご紹介を頂いた山崎肇先輩です。お楽しみに!!
posted by OB日記 at 11:51| 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年06月29日

OB徒然日記 第13号

OB徒然日記 第13号

1990年卒業  上宮 敏満

 1985年に入会し、6年間在籍させていただきました。同期の卒業は16名でしたが同じ年齢の皆さんは、もうすでにLOM内で活躍されていた方が多く、入会した年度は同期卒業の岩倉博文市長が理事長のときでした。
 委員会は広報や事務局などの総務系が多く、写真を残すためにということもあり、機会があるごとにできるだけ出席させていただきました。
 忘れられない事といえば、帯広にて全道大会があったときのこと。
車で行ったのですが熱があり、お腹もだんだん痛くなってきたので帯広駅の近くの病院へ
駆け込んだところ、たまたま院長先生がJCのOBということで快く診察していただき、そのうえ一晩入院させてもらって、結局大会には参加できずに帰ってきました。
 JCのつながりの広さを感じる出来事でした。
 現役メンバーの皆さんもそうだと思いますが、私も何も分からず入会しましたので、最初の1、2年は言われるままに呼ばれたところへ顔を出していただけのような気がしています。この参加するということがまずは大事なこと、と先輩達から言われ、また仕事を与えられたら一生懸命やりなさい、周りの人たちは必ずそれを見ているから、そしてきっとそれが仕事にもつながっていくからと教えられました 。
 まさしく私の顧客の三分の一はこのとき知り合った方達とそのご紹介者が占めています。又このときに出逢った方々、一緒に活動した仲間に教えられ、鍛えられたことが自分の財産になっています。現役メンバーの皆さんもそう思えるときが必ず来ると思います、
今しかできない活動ですので、精一杯やってみるとJCは面白いのではないのでしょうか。


上宮先輩、お忙しいなかご感想ありがとうございました。初めて知り合った人がJCのOBというだけで、すぐに親しくなれるという事はすばらしいと感じました。そしてJCでの経験が人生の財産になるという事もすばらしいですね。

次回は、上宮先輩よりご紹介を頂いた熊谷卓先輩です。お楽しみに!!

posted by OB日記 at 08:01| 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年06月11日

OB徒然日記 第12号

1989年卒業 渋谷 政義

 何も判らずに、1981年前期に入会させて頂き、1989年の卒業まで9年間お世話になりました。主に教育や広報、渉外、総務委員会に所属してJC活動をしておりました。
 私の勤めている会社事務所が事務局の近くにある関係で、もっぱら昼休みに顔を出していたように思います。入会当時は自分も含めて、サラリーマン会員が徐々に多くなっておりました。それに加えてLOMメンバーも増えてきた様に記憶しております。
 私はブロックや地区協議等の出向はありませんでしたが、例会等LOM内での報告で、色々な先輩やメンバーの方々が活動されている様子を知る度に頼もしく感じておりました。
 今思い返しても色々な思い出がたくさんあります。中でも忘れ難いのが、毎年恒例で青少年委員会が催していた「八戸JCと苫小牧JCの子供達のキャンプ交流会」でのある年の出来事です。厚真ダムの奥地で夜通し騒いで交流を深めておりましたところ、次の朝、メンバーの車が田んぼに裏返しになって落ちていました。そうとも気づかずに騒いでいた時のテンションを思い出し、笑うに笑えぬ状況が今でも鮮明に思い起こされます。
 おかげさまで各地へ出掛けて見聞を広め、また美味しい名産を食べ、そして個性豊かな仲間達と交流をしたりと、忘れることの出来ない有意義で充実した9年間を過ごす事が出来ました。卒業して19年になりますが、今でもJC活動を通して知り合えたかけがえのない仲間達とお付き合いをさせて頂いております。
現役の皆さん、JC活動を通して学んだ経験と仲間達との友情と信頼を大切にするとともに、培ったオピニオンリーダーとしてのノウハウを自分の職場や地域社会で存分に活かされることを切に願います。

渋谷先輩、お忙しいなかご感想ありがとうございました。田んぼで裏返しの車は他人にとっては笑い事かもしれませんが、本人にとっては一生忘れない悲しみであったと思います。お気の毒でした。
19年経ってもJCの時からの仲間と交流があるというのは素晴らしい財産でもあると思います。自分も仲間という財産をたくさん欲しいと思っています。これからも頑張っていこうという気持ちにさせて頂きました。貴重なご感想ほんとうにありがとうございました!!

次回は、渋谷先輩よりご紹介を頂いた上宮敏満先輩です。お楽しみに!!
posted by OB日記 at 11:15| 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年05月19日

OB徒然日記 第11号

1990年卒業 志方 晴樹

 1980年入会して1990年卒業の10年間苫小牧JCに在籍しておりました。時代はバブル期であった事もあり派手な活動期であったように思います。
卒業同期の岩倉博文(現苫小牧市長)さんの活躍は大変素晴らしいものでした。彼を日本JCの副会頭になって活躍していただく為に、彼はもちろん先輩達の努力、メンバーのサポートはそれはとてもとても輝いておりました。苫小牧JC理事長、ブロック会長、地区協議会長、日本JC副会頭と活動範囲がどんどん大きくなり、そばで見ていても毎日大きくなっていくのが目に見えておりました。それはLOMメンバーに勇気と元気を与えてくれたと思っております。
 私自身はLOMで広報委員が何年か続いたので自分の修練ではないと次年は他の委員会でなければ退会をしますと云った事もありました。またブロックや地区協議に出向させて頂き道内に広い人脈もできました。今も楽しい付き合いをしている仲間が多数おります。
 地区協議出向(地区大会特別委員会?)では根室大会担当委員で根室に4回、網走に3回車で走り会議、懇親会で朝帰り若くて元気だったと思う。しかし大会そのものは色々悪評でした。大会、懇親会でのハプニングやLOMメンバーがバスで多数参加してくれたのに良い宿泊先が確保できず皆に迷惑をかけた事などいろいろ思い出されます。
 当時の日本JCの運動では平和で豊かな社会、地域の発展、リーダーの育成が理念であり、目標であったいろいろな面で目標に沿った活動ができたと思っております。
 JC活動は40歳までと期限があったので頑張れたと思ったり、人生は終りが見えないのに毎日をずるずる送っていると反省したりの今日このごろです。現役の皆さんは楽しい喜びのあるJC活動をして卒業をしてからはOB会で楽しい思い出話をして一杯飲みましょう。
楽しい思い出をありがとうございます。


 志方先輩、貴重なご感想ありがとうございました。バブル期であった当時の活気が伝わってきました。現在は不景気で大変な時代ですが、不景気だからこそ先輩方の活気に負けないように頑張っていかなければと思いました。
次回は、志方先輩よりご紹介を頂いた渋谷政義先輩です。お楽しみに!!
posted by OB日記 at 08:17| 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年04月09日

OB徒然日記 第10号

OB徒然日記

1988年卒業 小保方 伸一

「JCの思い出」

 JCを卒業してから、早いものでいつの間にか20年の歳月が過ぎました。JCには30歳になる昭和53年の後期に入会し、昭和63年に卒業しました。10年7ヶ月間在籍していたことになります。当時を振り返ってみると、さまざまなことが懐かしく思い出されます。

 入会して最初に配属されたのが青少年開発委員会で、委員長は樽前山神社の猪股さんでした。猪股さんとは、その後に出会った多くのJCメンバーともそうであるように、現在も親交が続いています。昭和53年は苫小牧で地区会員大会が開催された年で、通例の7月入会が1ヶ月繰り上げての6月入会になりました。入会したのが大会を目前にして最終準備に大わらわだった時期だけに、所属している青少年開発委員会の本来の事業はもとより、大会実行委員会の組織やその中での役割もよく分からず、やっと自分の所属する委員会のメンバーの顔が分かった位で、何がなんだか分からない状態で地区大会を経験しました。この年の夏、青少年開発委員会は千葉からのサマーキャンプ(このときは宿舎に泊まりテントではありません)の第一回目の受け入れを手伝いました。

 右も左も分からない中でのスタートでしたが、次第にJC活動にも慣れていきLOMの役員や、道南ブロック、地区協、日本JCへの出向も経験させてもらいました。地元苫小牧はもとより、全国各地から集まったメンバーと一緒に活動する機会を与えられたのは得がたい体験でした。

 いろいろなことを経験させてもらいましたが、なかでも印象に残っているのが、日本JCの「JC青年の船特別委員会」に出向させてもらったことです。
1982年6月に出港した「第12回日本JC青年の船」は新さくら丸(商船三井 13,082トン)をチャーターして、JCメンバーと外国人を含む一般団員の総勢約400名が、神戸港から台湾の基隆港を経由して香港に行き、帰りは沖縄を経由して神戸港に戻る2週間ほどの船旅でした。この船には苫小牧からも2名の女性が一般団員として参加しています。航海中は充実した講師陣(舛添要一現厚労相、国際政治学者のマイク望月氏、世界初の単独太平洋横断の堀江謙一氏など大勢)による研修や各グループによる演劇発表会そして船上パーティー(船長主催、委員長主催、etc )など目白押しのプログラムで大忙しでした。船内にはJCメンバーと団員の熱気に溢れ、発表会の準備などで、まるで毎日が学校祭か学園祭の準備のため合宿をしているよう雰囲気でした。各寄港地には2〜3日間ほど停泊し、昼間は寄港地のJCの協力を得て見学や研修を行い、またホームホスピタリティーを通じて現地の人々との交流を深め、夜間は船に戻り宿泊すると云う日々でした。
船が神戸に戻っても、まだ事業の終わりではありません。各地のLOMに海外からの団員をホームステイで受け入れてもらい、日本の生活を体験してもらうプログラムが残っています。このプログラムには苫小牧JCも参加し、韓国JCの事務局員の女性と台湾のジャーナリスト志望女性の2名が苫小牧に来て、ホームステイ先には苫小牧から参加した2名の団員のお宅にお願いをしました。
この委員会での最後の仕事は、11月に韓国ソウルで開かれたJCIの世界大会に参加することでした。「日本JC青年の船」の事業がJCIの褒賞にエントリーしていたので、大会会場で事業のPR活動をしなくてはいけなかったからです。懸命のPR活動でしたが、残念ながら褒賞はダメでした。

 この文章を書いているうちに、忘れてしまっていた20年以上も前のJCの現役時代のことが生き生きと思い出されてきました。「当時、よくその様にハードなJC活動をこなす時間と体力があったなあ。」と感心しています。
最後になりましたが、JC時代のことを懐かしく思い出す機会を作ってくれた現役メンバーに感謝いたします。


次のご紹介者は、志方晴樹先輩です

【事務局より】
小保方先輩、貴重なご感想ありがとうございました。当時のJC活動の大変さが伝わってきました。現役メンバーも先輩方に負けないように頑張っていかなければと思いました。
次回は、小保方先輩よりご紹介を頂いた志田晴樹先輩です。お楽しみに!!
posted by OB日記 at 11:18| 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年01月15日

OB徒然日記 第9号

OB徒然日記

1986年卒業 大津山 峻

依頼された「人とのつながり・温故知新」と云う意味からいえば…….
私の過ごした86年度は数ある思い出の中から163名の100%例会を挙げたいと思いますね。
この最も内容の無い単純な、只集まろうと云うだけの例会は1986年9月3日・会員開発委員会が担当、委員長は紺野悟君、そして見事達成したのです。

この事業計画が浮上した時から、この大所帯この大人数で出来る訳ないし、不可能と誰しもが思い、まぁ、御題目として載せておくのなら良かろう程度の感覚でありました。
私も内心出来っこ無いな、との想いながらも、が、しかし理事長として「絶対に達成する」と豪語してしまい、委員長には大変なプレッシャーをお掛けしてしまいました。

年初より各委員会には自分の委員会メンバーにこの日の事を常に取り上げてもらい、我が委員会の未達がLOM創立33年目の歴史に汚点を残してはならない、と随分ご協力頂いたものです。
しかしながら、夏が過ぎる頃から、とても不可能だと事業に対する疑心暗鬼、焦燥感が漂い、ただ単に集まることに何の意義が有るのかと、嫌な雲行きに成ってまいりました。

紺野君は全会員に何度もメール(今様のメールではない)を送り、とにかく当日ニュー王子の会場に直進することを呼びかけ、個々人の予定チェックをスタッフ総動員で行い、一人ひとり虱潰しに出欠の確認を行っていったのです。
熱意は伝わっていくものです、LOM全体が段々と熱を帯びて来るのを感じました。
でも、メンバー163名には各々163のストーリが隠されており、遠隔地への出張があったり、痔の手術で入院中もあり、スリーピングで連絡不能など、あぁ、やっぱり駄目かと、絶望視したりで、それはそれは大変でございました。

JC運動とは何なのか?
それは、どんなに高邁な理念であろうと、どんなに素晴らしい事業であろうと、
「志を同じうする者」がとにかく相集い一堂に会さねば何一つ為されない、同志の結束から始まるものであり、スタートのスタートは先ずもって参加することにあるのだと強く感じた年でした。

当日は会場に専用電話を引き込んだり、8時のタイムリミットまでのカウントダウンをアナウンスしたりで、ひたすら時間の経過を見守るだけの例会でした。
テーブルは15の委員会別とプラス・ワンに設置され、随時100%を達成したテーブルからは歓声が上がっていました。
九州へ出張中のメンバーは宮崎JC例会場へ駆け込み私と宮崎JC理事長が電話でコンファメーションを行ない、入院中のメンバーはその所属委員会連中がなんと担架で病院から拉致した。
タイムリミットまで残り15分と成った頃、紺野委員長からあと一名、たった一名が未だ参上つかまつりませぬ、との報告があり、全員水を打ったように沈黙し会場入り口に視線を注ぎひたすら待ち続けたのです。
ついに残り時間があと5〜6分となりやっぱり駄目かと皆あきらめ掛けたその時、入り口のドアが開き彼(誰とは申し上げません)が入場してきたのです、会場は「やった!やった!」と総立ちになり、歓喜と拍手が鳴り止まず、当の本人は一瞬ビックリしたように立ち止まりましたが、まもなく笑顔がこぼれ、なんとこの日一番のヒーローはスリーピング・メンバーの彼でありました。
こんなシンプルな例会だったのに目頭が熱くなったことを思い出します。

この結束力が功を奏したかその後、褒章特別プロジェクトスタッフの活躍によりこの時までの多くの事業を集大成しエントリー、この年の獲得した褒章は、日本JC最優秀賞一本、優秀賞一本、北海道地区協議会最優秀賞一本、及び優秀賞一本と大量の4個のトロフィーを獲得したのでした。
その他、道南ブロックスポーツ大会、応援団最優秀賞、ゴルフの部第一位等々….

そうして、この年の12月には後期会員合わせて171名の写真が名簿を飾っていました。

  数はやはり力なのでしょうか?!

次の紹介者 氏名 小保方 伸一 先輩です。

「事務局より」
すごい! 163名のメンバーによる100%例会、すばらしいお話を大津山先輩ありがとうございました。文中に「163名には163名のストーリが隠されている」と言う部分がありますが、この部分簡単な解釈をしてしまいがちですが、本当に難しく、デリケートな部分だと考えます。
各々のストーリは皆それぞれが、それぞれの立場で一生懸命活動し行動している事と思います。それを理解した上で、声を掛け仲間意識を持たせ足を運んでもらう行動を起こしてもらう事と言うのは、本当に価値のある結果だと思います。真の仲間作りはこのような意識から芽生えていくんだと感じさせて頂きました。貴重なお話ありがとうございます。

次は大津山先輩からご紹介を頂きました、小保方 伸一先輩です。お楽しみに
posted by OB日記 at 13:22| 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年11月26日

OB徒然日記 第8号

平成20年11月17日

OB徒然日記

1982年卒業 阿部 喜朗

 「徒然日記」なるもの初めて板谷さんから耳打ちされ思い悩んでいたところ、11月に入り高橋理事長、乾事務局長がお見えになり、引き受けさせられました。
 卒業して26年、丁度苫小牧青年会議所の55年に及ぶ歴史の中程に私は在籍しておりました。何かを思い出すとしたら、やはり全道大会の事でしょうか。
 昭和53年、松井理事長の下、第27回北海道地区大会の主管が廻ってきました。私は式典部会長でした。7月8日13:00〜15:00開会式の担当です。考えることが山程ありました。しかし、これには良い教科書がありました。昭和44年の地区大会で使われた石田 貢先輩のシナリオであります。当事石田先輩は市民会館が完成し、その柿(こけら)落しの地区大会を仕切って以来、宮田 軍一・近藤 重明 両先輩と3人のチームを作り、イベントをプロのごとく請負っている観がありました。その手書きのシナリオはまことに緻密であり、非常に参考になりましたが、先輩特有の文字を判読するのに苦労した記憶があります。
 舞台はメンバーの大槻君に描いてもらいました。会場から見ると赤のジュータンと蹴込みのコントラストが生きて絵になったと思います。そして登壇者は最前列のみテーブルを設置、後列は椅子のみとしました。意図は圧迫感とスマートさからですが、これは前日のリハーサルで地区協のお偉方から足が組めないとか何とか大変なブーイングが出ました。最後は時の村井会長が「苫小牧の言う通りにしろ!」との一言で納まりました。
 舞台の背面は凝りに凝って、当事若草小の池本良三先生に依頼して白のスタイロフォームを熱線で切り取り壁画としました。折角の大作も光線の当たり具合が難しく正面から迫力不足の気がしました。
 オープニングは音楽、フィルム、ナレーション等、一つひとつに思い出があります。緞帳の幕開けの曲は、藤井先輩と第一洋食でコーヒーを飲みながら、入会前の山下君の意見も聞き「ツラツウストラはかく語りき」(2001年宇宙の旅のテーマ曲)の冒頭部にしました。それとナレーションを札幌のスタジオでテープにしたのですが、プロの声はさすがに低音の響く良い声だと思い知らされました。難しかったのは、山の内慎太郎君が作った詩の朗読に使った効果音です。イメージは西洋の鐘でカーンカーンカランカランという乾いた音ですが手当出きず、同じ鐘だとしてお寺のリンを試しました。どうしてもゴーンゴーンチーンチーンとなり相応しくなかったかと思います。
 出演者には数度のリハーサルなど、司会の岩倉博文君始めハードトレーニングを課しました。私は女房に作らせたシンボルマーク入りの前掛けをし、ストップウォッチを片手に時間あわせに精を出し、当日は奇跡のように2時間丁度で終えました。思えば1年前の釧路大会で次年度PRをした時に始まります。その時は「花の応援団」の出し物に前菜として松の廊下を歩む裾の布ズレの効果音を出すためワイヤーマイクを歯ブラシでこすり、音取りをしました。ザー・ザーと。
長い一年間でした。
 ついでながら、時の日本JCの会頭は麻生さんでした。純白のスーツを着こなしカッコ良かったと村井祐子女史が語っています。感受性が豊かであった頃です。そしてヴィトンのバッグを小脇に抱えて歩いていたとも申しておりますが、ちょっと怪しいと・・・
 ご記憶の方は彼女にTELして下さい。
 ともあれ、各人各様にそれぞれ全力を尽くし大成功に終わりました。直会は感激で涙・涙・涙。苫小牧JCはまさに一つでありました。
私もこれで心おきなくスリーピングに入れると思っておりました。しかし、運命はそうなりませんでした。
 現役の皆様、卒業まで楽をしようなどと考えたら間違います。最後迄全力投球しましょう。頑張れ!

次の紹介者 : 氏名  大津山 峻 先輩です。



【事務局より】
 当時の地区大会の苦労話、大変ありがとうございました。2004年度に地区大会を苫小牧にて開催したときも非常に苦労し、昔と同じように終了後の団結力は素晴らしいものがありました。大きな事業を成し遂げる苦労と、達成感は昔から変わらないんだと感じました。貴重なお話ありがとうございました。
 次は阿部先輩からご紹介いただきました大津山 峻先輩です。お楽しみに!!
posted by OB日記 at 09:55| 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年10月14日

OB徒然日記 第7号

平成20年10月10日

OB徒然日記

1979年卒業 板谷  剛

 今年は市制60周年、商工会議所設立60周年、苫信創立60周年、そしてJC設立55周年と何かと慌ただしい一年です。その上、我々と一緒にJC運動をした麻生さんが総理大臣になっちゃいました。
それよりも、もうJCのメンバーが二世三世の時代です。今更、我々老兵が昔を振り返って嗚呼のこうのと駄弁を弄しても何の意味があるかは非常に疑問の多いところですが。
 まあそれも由として少し語らせてもらいます。私の入会した頃は、今のエガオの駐車場になっている所に、富士館という、先田さんが経営をしていた大きな旅館があり、その棟続きの食堂の二階か三階の小さな部屋が昼の例会場でした。駅通りと36号線の交差している、今の北洋銀行の前に産業会館があり、そこに事務局があり、そこから国旗やJC旗、その他例会用品が入った横長の箱を毎例会ごとに運んだものです。 でも昼の例会は多くのメンバーがゴルフに行き、出席率が悪いので2回とも夜の例会にしてしまいました。その場所は、今の北洋銀行のビルの4階から上がホテルニュー王子で、そこが例会場でした。悪いことに例会が夜になってしまいましたので、そこから親不孝通りが近くに在り、例会ごとに不良仲間、JC仲間で夜の街に繰り出したものです。JCの評判を悪くしたのは私たちです。
 JC綱領、JCの三信条位が大きな指針で、後はその年その年で理事長方針によって活動をしていました。友情、奉仕、修練この三信条は非常に便利なものでした。友情の名を借りて、JCの仲間と毎日毎日飲み明かしたものです。酒を上手に飲むことが修練みたいなものでした。そして、飲食店の女性に愛の手を差し向けることが本当の奉仕であると・・・。今考えると大変自由な解釈でした。そんな中、今でも続く数々の友人が、今の自分を支えてくれていると思うとJCはありがたいものです。

友情は、International Friendship
  (世界中に友情の輪を広げよう)
奉仕は、Community Service
  (地域社会に対する奉仕活動)
修練は、Individual Training
  (個人の修練、自分を磨こう)

 本当はこんな立派な三信条なのに未だにうろうろしている自分が恥ずかしいです。もう一度JCに入会し直そうかな。
 懐かしい思い出もあります。一つは自分が理事長の時に、村井さんがJC専属の事務局員として採用されたことです。もう30年以上経つかな?二つには、多くのJCメンバーの協力で苫小牧JCが社団法人化されたことです。これには裏話があって、市内の著名人、近隣のJCをお招きして盛大に社団法人化の祝賀会を開催したのですが、本当はそれから1週間後に道庁から正式な認可状が下りたのです。
 道南ブロック、地区協議会、日本JCと思い出せば切が無いので今日はこの辺で終わりにします。
 ありがとうございました。

次の紹介者 阿部 喜朗 先輩です。

【事務局より】
 板谷先輩、昔の情景、そして皆様で飲んでいる風景が垣間見える素敵なお話し、そしてJCの三信条の素敵な解釈!?ありがとうございました。そして、今や居ないと誰もが困ってしまう事務局員の村井さん・・・これからも末永くよろしくお願いいたします!
 次は板谷先輩からご紹介いただきました阿部 喜朗先輩です。お楽しみに!!
posted by OB日記 at 18:25| 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする