本日記は、2008年度、苫小牧青年会議所設立55周年を記念して企画いたしました。

 2008年度の基本方針にある、「人とのつながり」という言葉、そして、理事長方針にある、「古きを温ね、新しきを知る」という温故知新の精神をもってJC活動をしていきたいという願いが込められています。OB諸氏の皆様方に青年会議所への思いを熱く語っていただくきます。

 本日記はリレー形式で、OB会長の柏木先輩からはじまり、次の投稿者をご紹介いただきリレーしていきます。
メンバーの皆様、先輩達からのメッセージを胸にJC活動に邁進していきましょう !!

2010年08月12日

OB徒然日記第23号

1997年卒業  牛丸智恵先輩

JCがどの様な団体でどの様な活動をするのか判らないまま 苫小牧歯科医師会の高橋康則先生より、半ば強制的にJCに入会させられました。
最初はイヤイヤながらの参加でした。

いろいろなことに参加させて頂きましたが 中でも印象に残っているのがGTS(グローバル・トレーニング・スクール)の参加です。故人となりましたが当時GTS委員会副委員長の青野尚人さんの「行ってみたら人生観が変わるほどタイは好いところ・・・」という誘いを受けてGTSに参加しました。苫小牧からは、青野尚人さん、喜多新二さんと私の3人の参加で、当時理事長の成田幸隆さんから千歳空港まで持ってきてくれた餞別の(JC一筋)で気合を入れてもらい不安ながらも出発しました。実施場所はタイ国チェンマイ県のアオヤマとバンムアンカで、私はバンムアンカ班になりました。チェンマイから北西約70kmに位置し、アカ族など4つの山岳民族から構成される村で 交流事業、協力事業、口腔衛生事業の3つを主にして実施されました。交流事業では、交流会でタイの民族舞踊を鑑賞したり、北海盆踊りやフォークダンスを披露したり、手荷物で持って行ったあんこで汁粉を作り、パーティーを行ったり、協力事業では教育図書・運動用具・パソコン等の寄付の他に、鳥小屋・椅子机・野外遊具の制作作業を行い、口腔衛生事業では児童を対象に歯科検診と歯磨きの指導を実地しました。当初室内での実施を予定してくれていましたが照明が不十分なために、35度を超えるあつい、あつい炎天下、マスクとゴム手袋のまま長時間かけての約90名の児童の検診となりハードでした。
最初はGTSを、地球市民として国際協力や地域への奉仕活動を行う、海外でボランティアを行って来る事業だと誤解していました。そんなおこがましいことを考えていました。でも この先生のいない学校でいろいろなことを自らの行動で学び多くのことを教わったのは私であり、人と人との《絆》を実感し、豊かさという素晴らしい財産を持ち帰って来ました。言葉が全く通じない中 酒の酌を交わしたり 身振り手振りの会話で 心と心がふれあい 互いの価値観を共有しあいたい お互いの良さをを認め合いたいと思うようになり、日本ではあまりできないことを短い時間で体験出来ました。

短い在籍ではありましたが、参加することで、行動することで、どんどん、どんどんJCが面白くなっていき、JC活動を通じて忘れられないたくさんの感動と 充実した毎日と 素晴らしい仲間を得ることが出来ました。
本当にありがとう!!この場を借りて感謝致します。


牛丸先輩有難うございました!
言葉の通じない海外での活動は、やはり大変だったのでしょうね。しかし、言葉が通じなくても心が通じればどんな人達でも交流が取れるのだと思いました。
私たちも色々な事業に参加し、行動することで色々な人たちと交流が取れると改めて思いました。海外での貴重な体験を執筆していただき有難う御座いました。
次回OB徒然日記第24号は、1998年卒業 前田浩人先輩です。
お楽しみに!




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2010年06月10日

OB徒然日記第22号

1997年卒業  福士雄二先輩

JCで忘れられない出来事

まず第一は、地区大会運営委員会への出向したことでした。
1993年苫小牧での大会。
委員長は、札幌の渡邊靖司さん...私より一学年先輩の方。
メンバーは、札幌・千歳・帯広・旭川・網走・滝川・森などから集い、
当然の事ながら、苫小牧のLOMメンバーと当日の地区大会へ向けて綿密かつ大胆な(笑)打ち合わせが行われました。

私が配属になったのは、式典部会…
「感動できる式典」目指して、着目したのは式典のクライマックス。「卒業式」で歌を歌おう(合唱)という事と「答辞」をしよう!という事でした。
選曲は、JC定番の「若い我ら」ではなく、卒業式に、卒業生にちなんだ歌で送りだそう!との発案のもと、“伝説の涙の大合唱”(笑)の「あの素晴らしい愛をもう一度」
今では、地区大会や全国大会で当たり前になっているこの演出も当時では、画期的な事でした。
予算も限られていたせいか?歌詞は、字幕(テロップ)で流すのが今では当たり前ですが、安藤弘康君と私が舞台上で先導してシュプレヒコール形式で乗り切りました。(笑)
冒頭部の♪いのち〜かけてと〜・・・を口にすると、今でも感動に浸れます(笑)

「答辞」もこれまたJC地区大会で「送辞」は例年行われていましたが、初めての?試みだったように記憶しています。
笑いあり、涙ありの演出で最後は、卒業生、いやメンバー全員にジ〜〜ンと感動していただこうと企画、立案した牧師(神父?)役や卒業生に懺悔を促し(笑)謝辞を述べた古木匡史君は、一躍‘‘時の人’’になり、その後のJC活動の礎のひとつになったのではないでしょうか!?(勝手な憶測ですが・・・)
多くのメンバーを正しき道の信仰に導いた功績は、今でも語りぐさ(笑)です。
シナリオも最高でした(笑)

小学・中学・高校時代の同級生やら先輩・後輩といった仲間と出会える。いわば「仲間作り」もJC入会してからの大きな励みと楽しみでした。
久しぶりに再会した友達、ここで出会えた同士は、時に頼もしく・時に輝いた存在で・・・
私の人生のアルバムに笑顔・泣き顔・真剣な表情、響き渡る叱咤激励・・・登場します。

「千葉 仁」
故人となった彼との思い出の数々は、今でも忘れられなく何度もリフレインされます。
酒を酌み交わして激論を交わした事、衰えた体力で挑戦したサッカー、卒業式でキャロルを熱唱したこと。神社で宮司の口上に笑い転げた君、
熊本の全国会員大会で同舟した柳川の川下り・・・撮影ポイントで照れ屋の君は帽子で顔を隠し・・・(笑)
最終年度には、副理事長を務めた君がいたなら、今の現役メンバーやOBにどんな言葉を贈りますか?

「もっと飲もうよ」、「もっと楽しもうよ」、「もっと声を上げようよ」・・・・・
温厚な彼、故・千葉 仁君が、天国からこんな言葉で語りかけているような気がしてなりません。
「もっと…」を実践して「やっと…」手に入れる・・・
そんな有意義な人生、送っていきたいもんですね・・・皆さん(笑)

福士先輩有難うございました!
今では、当たり前に行われている地区大会の演出を初めて行ったのが1993年苫小牧大会からだったのですね。色々とご苦労されたからこそ楽しい思い出になるのでしょうね。
私達も困難を乗り越え達成したときはメンバー皆で喜びを分かち合いたいと思います。
そして、「もっと…」を実践して「やっと…」手に入れる・・・を心に刻み今後の活動を頑張って行きます。
福士先輩大変貴重なお話有難うございました。
次回OB徒然日記第23号は、1997年卒業 牛丸智恵先輩です。
お楽しみに!




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2010年04月28日

OB徒然日記 第21号

1997年卒業  成田 幸隆先輩

 1996年、夏も終わろうとしている9月。翌年の苫小牧青年会議所の理事長職を受けた私は悩んでいた。もう既にそのことを知っている周りの人々から励ましの言葉やJCに対する批判の声が相半ばして聞こえてきていたからだ。
 批判の声のほとんどが「JCは偉そうなことばかり言っている」とか「やりっぱなしで継続しない」というような内容であった。確かにバブル経済が終わり、日本経済にも陰りが出てきた時期とはいえ、まだまだイケイケ状態の雰囲気が残る時代であり、JCの発言も天下国家的な提言や政策が多い時代であった。
「このままでいいのか?」と自問自答する日々が続く・・・・・「よし!原点に戻ろう」
JCは中央集権的ではない組織で、地方のLOM活動が原点なのだ!!もっとこの地域のことを考えよう。そう思った瞬間、また新たな疑問が頭を過ぎった「待てよ!我々自身、本当にこの街が好きなのか?」私自身は苫小牧生まれの苫小牧育ち、鮭が川に戻るように苫小牧に戻ってきたが、JCメンバーが皆そうだとは限らないかもしれないぞ。
 私はメンバーに「苫小牧は好きか?」と言う事を何気なくリサーチすることにした。結果は驚いたことに、「そんなに好きではない」と言うメンバーの多さであった。
「これは不味い」こんなことで、この地域のことを考えられる訳が無い。我々がやらなければならないことは、まず我々自身がこの街を好きになることなんだ!!と思ってはみたものの、さてさて?どうしたものか。
 今までであれば、事業や政策提言を考えるところであるが、「この街が好きだ」と言う意識改革をするのは初めての事である。この問題を「街づくり」をテーマに行政との連携を模索しようと考えていた公共政策研究委員会に担当させることにした。
 この委員会は渡邊武志委員長、坂本将一副委員長、そして幹事に高橋憲司君(ホォ〜!地区協三羽鴉?今思えば錚錚たるメンバー)でも、この時は入会3〜4年目ですから、担当副理事長の木村司君とかなり語り合い、悩んだことと思います。
 ちょっと余談ですが、この頃、形から入る私としては、「好きトマ」のマークが必要になると思い、知り合いのデザイナーにマークの原案を数十種類作らせていました。結果的に今もたまにJCで登場するマークにしたのですが、残りの数多くのデザイン画を、この先一番長くJCにいるだろう若い幹事の高橋憲司君に「将来、理事長になるときに使いなさい」とそっくり渡しました。
 数日後、事務局にいると高橋憲司君が入ってきて、「理事長!頂いたデザイン画の封筒を無くしました」と明るい顔をして言うではありませんか、こいつは大物なのか?アホなのか?と思いましたが、今考えると大物だったのですね(笑)
 本題に戻りますが、この委員会にはどうしても欠かせない外部のメンバーが必要でした。「街づくり」が最終目標ですから、行政との意見交換が不可欠なことであり、若手の市役所職員に参加してもらう作戦を立て、五十嵐氏(現苫小牧市役所経済部長)など数名に参加をしてもらうこととなりました。
 いよいよ「意識改革の始まりだ」委員会名も「好きです!苫小牧」委員会と呼ぼう!!と言ったところ、渡邊武志委員長が一言、「理事長、まだ好きですと言い切れる自信が無いので“好きになろう”で良いですか?」、「エッ!!マジ?」・・・・・・・・・・・

成田先輩ありがとうございました。
「好きトマ」が誕生するまでの秘話を初めて知りました。当時高橋顧問も若かったのですね(笑)苫小牧をもっと好きになる為には、この街をもっと知ることが大切だと思いました。
そして、私たちが得たものを多くの市民の方々に発信していくことにより、一人でも多くの方が苫小牧を好きになってくれるとうれしいです。
成田先輩、大変貴重なお話ありがとうございました。
次回は、1997年卒業 福士雄二先輩です。
お楽しみに!




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2010年03月31日

OB徒然日記 第20号

1998年卒業  木村 司先輩

青年会議所を卒業して、早くも12年が経ちました。言わば、一昔、一廻り、一サイクルが経ってしまいました。歳を取れば取るほど1日が早くなり、1週間、ひと月、一年が早くなりました。卒業してからも、散々先輩、同年代、後輩、そして現役の皆さんにお世話になりながら、真剣に青年会議所を振り返ってこなかったのが現実です。この「OB徒然日記」の依頼を受け、どうしましょう、何を書きましょうと思っていましたが、OB300人居れば、300人の、500人居れば500人JC感が有って良いのだと思い、私なりの思い出を書かせていただきます。
私は昔から、JCには大きく3回の出会いがあると思っています。まずは、JC入会同期の出会いであります。年齢もバラバラ、職業もバラバラ、生まれ育ち、バックボーンの違いが有るにも拘らず、JCは一括りに新入会員と呼んでくれる訳であります。図らずも、同期の仲間が出来てしまう訳であります。二番目の出会いは、何年も繰り返す、毎年の委員会配属での出会いは、何事にも替え難い出会いの場でした。三番目の出会いは、卒業年度の同期生であります。JC年数もJC歴も、バラバラの人間が同期卒業と言う節目で出会い、葬式まで面倒見合うのかな〜と(これは、まだ想像ですが)。本当に有り難い、出会いの場を与えてくれました。私の場合、この3回の出会い以外に、アイスホッケー同好会、じゃがいもクラブでの出会いも、忘れられないものがありますが、今回は本筋のJC活動に3回の出会いについて、書きたいと思います。
私がJCに入会したのは86年で、時の理事長は大津山峻さんでした。その前年の12月に苫小牧市に帰ってきたところでした。早速、アイスホッケーをしていると言うことで、ある先輩から半ば強制的に、入会をさせられました。これがまた、後で考えると、本当にいいタイミングで入会したなと、感謝しています。同期入会は、朝倉洋さん、故中村幹嗣さん、故橋本恵介さん、今井猛さん、佐藤旬一さん、佐藤弘さん、阿部明弘さん、遠藤連さん、大澤助三朗さん、成田幸隆さん、長野昇平さん、及川康志さん、中村英二さん、秋村裕一さん、と歳も一回り以上も違う、多彩な顔ぶれ、そうそうたる?顔ぶれ、と言うかバラバラな個性の集まりでした。このメンバーが不思議と仲が良く、入会年の86年から、ヤロウ会と名乗り、月に一回は飲み会や、その年の卒業生を送る会を開いていました。どれもメチャメチャで楽しい飲み会でした。平成元年に最初の卒業生が出る、と言うことでの福岡での全国大会に(渡邉理事長、岩倉圭彦次年度理事長)結構な人数で参加したのも、いい思い出です。ちなみにヤロウ会は錦町のスナックで、あるメンバーとあるメンバーが意味もなく喧嘩して以来回数が減り、秋村君の卒業を祝う会から、開かれていません・・・・。ア!3年前私の選挙の時に開いていただきました。感謝です!そろそろ、中村幹嗣さんと橋本恵介さんを偲ぶ会でも開きましょうか????!
二番目は、これは毎年のことですし、数年に一度しか積極的に活動しなかった私でも、平成5年の地区大会(田中理事長、朝倉実行委員長)での武田副理事長の下、室長をさせてもらった、経験や、色々な方との出会いや、思い出、エピソードは、数限りなくあります。が、ここは、97年、98年の「スキトマ」誕生を中心にしたいと思います。97年成田理事長から、政策担当の副理事長をやれ、との指示を受けました。委員会は公共政策と経済政策の2委員会。公共政策は市役所の若手メンバーとの協議を経済政策は商工会議所と絡むことで、苫小牧の現状を学び、将来の方向性を見出していきたいとの委員会でした。2委員会を束ねるのは、趙さんに室長をお願いしました。庭でのバーベキユー・パーティは楽しかったなー!チョコは元気にしているかな?公共政策の委員長は渡邉武志君、経済政策の委員長は本間裕章君でした。まずは、先進事例の八戸JCの「ラブ・はちのへ」を勉強に行こうと、新年交礼会にお邪魔して、色々聞いてまいりました。「全てのJC活動はその街を愛する気持ちから始まるんだ!」また「その街に住んでいる人の気持ち以上に、その街は良くならない」と言う事に気づかされました。副委員長の坂本君、幹事の高橋君も交え、毎日のように、今は無き「花丈」で飲みながら、議論を重ね、「もっと自分の住んでいる街苫小牧を知り、もっと好きにならなければ、いい街なんか作れない」。そこで「好き・トマ」だ!と言うキーワードが出来ました。それまでも、先輩方はその精神で活動してこられたのですし、今の現役の皆もその精神で活動してきているのだと思います。その精神的支柱というか、精神的意味合いを改めて言葉にしたのが「好き・トマ」だったのだと思います。市役所の12名の皆さんとの毎月開いた「好きトマ会」もいい思い出です。このメンバーが今、部長、次長、課長になっていて、市役所の中枢を担っていることを考えると、私自身、不思議な縁を感じます。
98年は、図らずも第46代理事長を勤めさせていただきました。副理事長には青木、橘、丸屋各氏にお願いしました。45周年記念行事「はぐくみ」を地元に根ざし、長く深く活動なされている、各種団体に皆さんを一同に会して開催させていただきました。JCは最古で最大のNPOであり、NGOだと言うプライドと誇りをもって、各団体のインターフェースとなりえるのではないかとの思いで開催させていただきました。ああだ!こうだ!と、色々言われて、大変だったよね〜、坂本く〜ん!!毎日のように、怒っていた渡邉君がまさかの地区担まで出世するとは、想像も出来ませんでした。名専務ありがとう!(今もお世話になっていますが・・・!)。
最後の出会いは、同期卒業の仲間です。32年早生まれと33年生まれの17名です。きっと、お坊さんも医者も居るので、一生を終わるまでの仲間になるんだと思っています。私や朝倉さんのように13年も15年もJCやってても、意外と接点のない方もいらっしゃって、卒業してからその人となりを感じ、親しくなるのも感慨深いものがあります。1958年生まれから、58会(いつわ会)ヤクザみたいな名前の会をやっています。私達の卒業式の出し物が歌だけ歌っていれば良いものを、誰が言い出したか、ヨサコイなんか踊っちゃいまして、今の長々やってヒンシュクの卒業式の走りだったのでは、と反省しています。今や,私たちが新年交礼会やビール例会、卒業式に一番出席している、年代になっているようです。最近出てこない、同期の仲間もちゃんと顔を出しましょうね!これからも、元気で、長生き、楽しく飲みましょう!最後に、先輩たちにお願いです。私達、若手の方のOBがメイン・テーブルに座ることの無い様に、ご出席よろしくお願いします!



木村先輩ありがとうございました!
JCでの3回の出会いは大変共感を受けました。同期入会での出会い、委員会配属での出会い、卒業年度の同期生とJCにはいろいろな人と出会う機会が沢山あります。これからも、人との出会いを大切にして多くの仲間を作り、JC活動に邁進して行こうと思います。
木村先輩、貴重なお話ありがとうございました。
次回は、平成9年度 第45代理事長 成田 幸隆先輩です。
お楽しみに!






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2010年03月04日

OB徒然日記 第19号

1998年卒業  松岡 桂先輩

立春を過ぎてもまだまだ寒さの厳しい中、JCOB、現役の皆様いかがお過ごしでしょうか。
私は、平成10年に卒業致しました松岡 桂です。このたび同期の朝倉君の後を繋ぎ駄文ではありますが寄稿させていただきます。
まずは簡単な自己紹介を、私は以前、札幌の脳神経外科であります中村記念病院に勤務しており、リハビリテーション部主任を13年務めた後にカイロプラクティックカレッジに進み、縁あって苫小牧市内の整骨院に勤め1993年より表町で日本カイロプラクティックセンター苫小牧を開業しております。
 JC入会のきっかけですが、開業してから3年ほど経って大町歯科医院の加藤先生と知り合い、当事先生は拡大委員会に在籍しており、JCへの入会の誘いを頂きました。
その当時、センターの状況も安定しだして、札幌との縁も薄くなりだした時期で苫小牧でこれから一生頑張っていこうと思っておりました。
JCがどの様な団体でどの様な人たちの集まりなのかよく分からなかったのですが、苫小牧で友達を作りたかった事と妻の勧めもあり、市民会館に入会審査の面接を受けに行くことに。当日少し早めに着いたためロビーの長いすに座っていると同期入会となる高橋 憲司君が隣に座り言葉を交わすようになり、その後今まで縁が続いております。
その後無事入会の決まった新入会員のほとんどは今成委員会に配属されましたが、当時この委員会は大きな事業を控え大変状態でした。夜遅くまで事業の計画、例会の準備などJCの活動はこれほどまでかといきなり洗礼を受けた想いでした。
そんな状態ではありましたが事業は無事成功、JCメンバーにも参加していただき市民の皆さんにもよい評価を頂きました。
その後の打ち上げは、高岳のバーベキューで行われ、その時の今成委員長の涙は今も忘れません。
 その後私の最終年度木村 司理事長の年、委員長を命じられ、街づくりネットワーク委員会を勤めることになったのですが、当時私は理事長に、「この委員会は何を目標にどの様な活動をしていけばいいのかをイメージでもいいですから教えてください」と聞くと木村理事長は、「委員会のネーミングらしい活動を松岡の好きにやれ」との素敵なお言葉。なんとアバウトな理事長、惚れました。
それからの委員長としての一年間は本当にいい経験でした。
まずは街づくりに関与していると思われる団体をすべて揚げ、町内会からボランティア団体などすべてあげると5000団体をこえ、そこから100あまりの団体にアンケートを送り最終的に11団体に絞りレポートを作成、一冊の冊子にして発表させていただき、更に例会では、これらの団体の横のつながりや市民との繋がりをいかに構築するかを考え、コミニュティーFMの有用性を感じ、例会において模擬放送局をつくりメンバーの皆さんに提案させていただきました。
現在北海道には、20局あまりのコミニュティー放送局が今も市民のための情報を放送しており、人口10万人を超える都市でコミニュティーFMがないのは苫小牧市だけであり市民意識の向上や災害時の非常緊急連絡など、大いに意義のある情報ツールと考えます。
私はJC卒業の後、志を同じくする仲間とミニFMを立ち上げ、ゆのみラジオと銘打って正式なFM局開設に向け活動を続けております。
今現在は、アイスホッケーアジアリーグの実況開設を王子イーグルスホームゲームの時、白鳥アリーナにおいて苫小牧ケーブルテレビさんとのメディアコラボで生放送でお送りしています。また、スカパーチャンネルでも紹介されていますので是非見てください。
このように仕事以外でも生きがいや目標をもてたり、また知り合えることのなかった人との出会いなど、私にとってのJCは今までの人生の中でかけがえの無いものです。
現役の皆さん、このJC活動を心から楽しんで意義のあるものにしてください。
最後に、JCに誘ってくれた加藤先生、委員長にしてくれてむちゃぶりをしてくれた木村司理事長、苦労をともにした当時の委員会メンバー、そして今なお仲の良い同期の卒業メンバーにお礼を言います。どうもありがとう。そしてこれからもよろしく。


松岡先輩ありがとうございました!
JCで経験された活動を卒業後に志を同じくする仲間とミニFMを立ち上げ、現在でも活動しているお話は大変勉強になりました。私たちもこれからのJC活動の中で生きがいや目標を持ち仲間たちと共に大いに活動していきたいと思いました。
松岡先輩、大変貴重なお話ありがとうございました。
次回は、松岡先輩のお話にも出てきた平成10年度 第46代理事長 木村 司先輩です。
お楽しみに!
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2009年11月25日

OB徒然日記 第18号

1998年度卒業 朝倉瑞昌先輩

※卒業式に思う※
 今年も卒業式の案内が届きました。JCは40歳で平等に卒業を迎えますから、在籍年数・役職に関わらず卒業式は感慨深いものとなります。
 私が卒業したのは11年前の1998(平成10)年で、昨年で10年目の節目を迎え同期卒業生はみんな50代を迎えました。一年に何回か同期会(我々の同期は1958年生まれですので五八会「いつわかい」と言います)をしておりますが、卒業式の後もおなじみの店・同期である長野昇平君の「そーらん亭ながの」で同期会(酒飲みの愚だ巻会)を開催するのが年末の恒例となっています。
 その中で必ず話題になるのは、自分たちの卒業式のことであります。そこで、11年前の卒業式についてお話を進めたいと思います。
 この1998年まではJCの例会場は、まだホテルニュー王子(現プラザホテル)でした。次の年にはグランドホテルニュー王子がオープンしましたから、我々五八会の卒業記念品は現在例会で使っているマイク付き演台です。
現在の卒業式では、卒業生が企画を凝らした現役の送辞に、これまた企画を凝らした答辞で応じることが通例となっていますが、この原型が我々の卒業式の企画でした。
せっかくの卒業式だから思い出深いものに、自分たちも何か出来ないか、そんな単純な発想からスタートしましたが、プロデューサーを任されたのは当時マリオブラザーズの一人 松岡桂君、素敵なシナリオを創ってくれました。ソング(歌)とダンス(踊り)の華麗なミックス(融合)そんなテーマだったと思います。果たしてその内容は、ソングは当時の大ヒット曲 SMAP の「夜空のムコウ」・ダンスは「YOSAKOIソーラン」、タキシードからはっぴへ華麗なる変身。
 はたして、言うは易く行うは難し、最初の練習は散々な状況、早くもあるメンバーからは止めた方がいいといった意見が、しかしそれからの特訓は目を見張るものがあり、寒風が吹きすさぶなか(この年はとても寒い霜月・師走でした)ストーブを最強にした真宗寺本堂(私の職場)で、最後は毎日のように夜遅くまでアルコールも忘れて取り組みました。最初は人前で歌うのはイヤ、最前列で踊るのはイヤと言っていたメンバーまでも、「オレがいやオレが一番前に出る」と言うようになり、上達は目を見張るものがありました(自画自賛)。
 その結果、当日は予想以上の出来(本人達から見れば)に拍手喝采・カーテンコールも(若干の誇張あり)、しかし、当時の会員交流委員会から時間は20分程度と言われたのが実際はその倍もかかり、卒業式の時間が大幅に延長されることとなりました。この時間無視の伝統は以後毎年受け継がれることになり、まったく申し訳ない事です(ゴメンナサイ)。
 今年も数多くのメンバーが卒業されることと思います。どうかJCライフの集大成の卒業式、地区でも全国でも卒業式は感動的ですが、やっぱり自らが育ったLOMの卒業式、オンリーワンの感動の中に迎えて下さい。

朝倉先輩、ありがとうございました!
 
今年の卒業式は、12月3日に行われます。
たくさんの功績を体を張って示し見せていただいた先行く友が、40歳の卒業を迎え、めでたく先輩となります。
思い思いのJCが各々の思い出となり、今後も語り継がれるJAYCEEとなるんですね。
今も昔も友は友、親友という友を多く得られるのもJCのすばらしさですよね。
朝倉先輩、ありがとうございました。今年の卒業式も数多くの先輩方の出席を心よりお待ち申し上げます。
次回、投稿者は 1998年卒業 松岡桂先輩です。ご期待ください!

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2009年10月23日

OB徒然日記 第17号

1992年卒業 藤島豊久先輩


 前号より・・・私が卒業したのは1992年でしたか。9年間在籍し様々なことを諸先輩方から学ばせていただきましたが、今その時に経験したことがたいへん役に立っています。前号で古木さんが日本宇宙少年団のことについて触れていましたので筆をとらせていただきました。
 現在、苫小牧分団は30名余りの団員と設立以来活動を共にしているJCOBの古木匡司さん、朝倉 洋さん、そして苫小牧市科学センター現職の指導員の皆さんや元館長の杉山光二さん、細川正直さん、菅原章介さん、そして新しくリーダーになった元日本科学未来館職員甲野佳子さん等が活躍しています。分団は北海道新長期総合計画に記された15の戦略プロジェクトの一つとして航空宇宙産業を誘致する中での市民に対する広報運動として1987年7月に設立されました。当時の地元関係者のご努力により宇宙科学研究所(ISAS)や宇宙開発事業団(NASDA、のちに宇宙3機関が統合されJAXAとなった)が苫小牧東部で安全評価実験(ロケットモーター衝突実験)を実施する運びとなり大変大きな成果をあげていました。具体的な例を挙げますと、スペースシャトルチャレンジャーがリフトオフしてから間もなく爆発し、学校の先生を含む7人の宇宙飛行士が亡くなられたことはご存じの方も多いのではないかと思います。ケネディー宇宙センターから打ち上げられ73秒後に爆発し大西洋に落下したのです。ロケットが万一姿勢制御できなくなり、陸地に向かって落ちるということになると燃料を満タンに積んだブースターが住宅地に落下し大参事になることが予想されます。そこでエンジンの燃焼を中断して空中で爆発させ、出来るだけ被害を少なくしたり、地上に激突した際の影響度が計算上の値と合致するかなどを数年間実験したのでした。しかし平成6年、いつもは9月〜10月にかけて実験していたのですが、一番天候が不順な6月に今まで以上の燃料を積載したロケットモーターの衝突実験をしたところ、近くの養鶏場で実験音に驚いたニワトリのひなが500羽ほど圧死してしまいました。折しも原燃の事故隠蔽が発覚して間もなくの出来事。どちらも監督官庁が科学技術庁。マスコミが大騒ぎした結果、NASDA本部(当時所在地は貿易センタービルにありました)で緊急会議が開かれ、苫小牧での実験は中止となりました。それ以降NASDAでは遠いオーストラリアの砂漠ウーメラで実験しなければならなくなりました。一方で苫小牧分団の運動も目標を失いかけましたが、実験とは別に宇宙開発関係者との出会いや実験見学などを通して多くの経験を積ませていただきました。
 平成17年5月JAXAに宇宙教育センターが発足し強力なバックアップを得た日本宇宙少年団は、青少年教育のために新たな目標を立てながら活動を続けています。全国組織でもあり、団員約3000名、120余りの分団、約750名のリーダーで構成され、ほとんどの分団が各地のボランティアスピリッツに支えられています。運営方法や活動のノウハウ、特に全国組織の拡大や会議の手法、イベントの実施などはJCで経験したことがたいへん役に立っています。子どもたちを対象にした活動とは言っても分団を維持しているのは地元企業やリーダーです。活動最中の意見交換、他組織との交渉や交流、教材開発やリーダーの指導力向上など、全てをJC流儀に当てはめるわけにはいかないとしても充分に応用できます。全国に分団を拡大しているところですが、地域によっては組織運営が未経験のスタッフも多く、発足してから24年が経つ現在でも試行錯誤を繰り返している組織です。
 日本全国の宇宙少年団が活動の基本としている「宇宙教育」はインターネット上で検索すると実に17,400,000件ヒットします。初代JAXA宇宙教育センター長の的川泰宣教授が宇宙と宇宙活動の素材を最大限活用し、青少年に潜在する冒険心・好奇心・匠の心に火をつけ、「いのちの大切さ」を基本に据えて、次世代の日本を担う青少年の人材育成に貢献することを目的として宇宙開発先進国と共に様々な活動を展開しています。宇宙を知らない人でも「宇宙教育」の理念や子どもの特質を理解している人、活動する上での危機管理や安全教育が備わっている人、もしくはこれから学ぼうとする人であれば世界中の誰もが仲間になれます。
 飢えや貧困により明日の生活を確保しなければならない国。気候などにより宇宙が見えにくい国は宇宙に対する夢がなかなか育たないところとも言えます。また、宇宙が見える条件を充分満たしている国々でも、子どもの頃に抱いた宇宙への夢をいつのまにか頭の片隅に置いてしまい、本来は人類のために役立てるべき宇宙開発技術を残念ながら武器として利用している国もあります。今私たちに求められていることは、大人から子どもたちへの“夢を育てる継承”をしていくことです。家庭内や近所付き合いが希薄になりつつある現在ですが、今後とも家庭教育、学校教育と共に社会教育の役割は不変ともいえます。
 JCに在籍していた9年間のほとんどが政策系委員会所属でしたが、今になって思えば他の委員会を経験していればもっと幅広い見方や仲間作りができていたのかなとも思いますし、同じ委員会に長くいたからこそ継続的に取組むことが出来、外部の人との信頼関係が確立できたのかも知れません。いずれにしろ私の人生に於いて大いに役立ちました。ありがとうございました。
 おわりに、今回このような機会をいただき関係者の方々に感謝申し上げます。今後ともおおくのOBの方々からのご厚意が寄せられますようお祈り申し上げます。

藤島先輩ありがとうございました!!
宇宙開発に携わる方々の熱い情熱が、ひしひしと伝わるお話を頂き、大変貴重に感じております。本当にありがとうございました。又、様々な子供達に対して「夢を育てる継承」の部分は大変感銘を受けました。継続して取組む事の大切さも改めて考えさせられ今後のJC活動や運動に役立てられると考えます。本当にありがとうございます!
次回は1998年卒業の朝倉瑞昌先輩です。
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2009年10月02日

OB徒然日記 第16号

1998年卒業 古木匡司先輩

 山崎さんからバトンを引き継ぎます古木匡司です。苫小牧青年会議所には、1989年に入会させていただき、1998年卒業いたしました。ちょうど10年お世話になったことになります。私にとってこの10年間は、恥ずかしいのを承知の上で言いますが、青春そのものだった気がします。
 さて、「OB徒然日記」の寄稿文を書く前に、お詫びをしなければなりません。依頼を頂戴してから約一ヶ月間放置してしまいました。心の片隅では、早く書いてしまわなければと思いながらも、文才も根性も無いためこのような不始末を起こしてしまいました。関係各位、特に何度もご連絡をいただきました担当の松本さんには、ご迷惑をお掛けいたしましたこと、心よりお詫び申し上げます。
 こうした悶々とした日々を過していた間に、9月オープン例会に出席する機会をいただきました。「市民参加条例」をテーマに行われたパネルディスカッションに触れてみて、久しぶりに青春時代に戻りました。例会の締め括りに岩倉市長よりJCの大先輩として現役メンバーの皆さんにエールが送られました。それは、ご自身が現役バリバリだった今から二十数年前、今回の例会テーマにあるような市民参加条例の影も形も無い時代に、「苫小牧青年団体協議会」なる市内の青年が集う市民グループを青年会議所がその核となって立ち上げた際、市に提言を行いその具現化された一つにオートリゾートアルテンがあるという実例の紹介とともに、だからこそ条例が整った今、JCは持ち前のフットワークとヘッドワークを駆使して、苫小牧市に提案や意見をどんどん出して欲しいというものでした。岩倉大先輩の熱弁に引き込まれながら、「JCってやっぱりいいな。」という気持ちが大きくなりましたが、岩倉先輩のエールを受けたメンバーにちょっと元気が足りないなと感じられたのは少し残念でした。
 前置きが長くなりましたが、これから昔話を少ししたいと思います。この「日記」の前寄稿者山崎さんに、すっかりLOMの暴れん坊の様に紹介された私ですが、あの件で出てくる「これでいいのか!」なる発言は、実際本当にあったかどうかは定かではなく、いわば山本高広が真似をしている織田祐二の「キター!」みたいな物と考えてくださって良いと思います。何はともあれこの年1993年は、理事長、実行委員長の下LOM一丸となり全道大会主管という大きな事業に取り組んだ年であり色々な出来事がありました。当時私は専務理事を務めさせていただいておりましたが、何せ大会主管は25年振りのこと、物事が暗礁に乗り上げるたびに、若さから、青さから暴走しメンバーに迷惑掛けることもしばしばあったかと思います。その様なことから前述の「これでいいのか」発言事件は、真偽不明の逸話としてごく一部(一人)の方がいまだにおっしゃっているのだと思います。
 全道大会について書き始めると、四部構成の十回連載ぐらいになってしまいそうなので別の機会としまして、今回はこの年あったもう一つの大きな事業についてご紹介致します。
 1993年は、苫小牧青年会議所創立40周年でした。大会主管の陰に隠れる様に執り行われましたが、記念式典並びに記念懇親会の開催、記念誌の発行、そして市民向け記念講演会の開催と大きく三つの事業を行いました。先の二つは、概ねスムースに進みましたが、記念講演会についてはなかなか想うように進みませんでした。それは、講師選定の問題です。私たちは、年度当初よりこの記念講演会の講師として、前年9月にスペースシャトルエンデバーで宇宙飛行を果たしたばかりの毛利衛さんをと考えていました。
 しかし、日本中が『毛利フィーバー』真只中です。私たちJCは、苫小牧市との調整(ここにもドラマがありました)に時間を要したこともあって手を挙げるのが遅くなってしまい、結果毛利さんを講師とする記念講演会の年度内の開催は難しいという流れになっていました。当時の理事長、田中正彦さんはそれでも諦めませんでした。正確に言うと、講師には毛利衛さんしか考えられなかったし、考えていなかったというのが実情です。何百件もある講演依頼の中で、私たち苫小牧JCの依頼を上位に上げて、何とか9月から10月にかけて開催できる様JCの豊富な人脈を頼りに、どこかにコネは無いかと奔走しました。その様な時に辿りついたのが、日本宇宙少年団です。漫画家の松本零士氏が理事長に就き、1986年に設立されております。この日本宇宙少年団を窓口にすることで、話が通りやすいというのです。そして何と苫小牧にもこの分団があるというではありませんか。灯台下暗しとはこの事、いやただの勉強不足だったのかもしれませんが、何はともあれこの情報に飛び付きました。当時苫小牧分団でリーダーをしていた藤島豊久先輩(現在は副分団長)に相談に行くと、適切なアドバイスを頂くと共に日本宇宙少年団(YAC)のレクチャーもたっぷり受けなければなりませんでした。このレクチャーでさらに驚きの事実を知ることとなります。YAC苫小牧分団は、苫小牧JCが創ったというのです。いや正確に言うと苫小牧青年会議所がその活動の中心となった苫小牧青年団体協議会が提唱したことで設立されたというのです。そして1987年の苫小牧分団設立時には、苫小牧JC主催の講演会で松本零士氏が講師をされているのです。本当に自分自身の勉強不足を恥じ入るばかりでした。ところで、毛利衛さんを迎えての苫小牧青年会議所創立40周年記念講演会は、9月25日苫小牧市総合体育館に主に小中学生三千人を集めて無事開催することができました。YACの存在に感謝したのは言うまでもありません。それが高じて、私自身がYACのリーダーになってしまう顛末もアナザーストーリーです。ただ昨年、『洞爺湖サミット』関連事業として行われたYAC苫小牧分団主催の「宇宙サミット」では、たくさんのJCメンバーにお世話になりました。改めまして御礼申し上げます。
 だらだらと綴ってしまい、何を皆さんに伝えたいのか解らなくなってしまいすみません。ただどうして40周年記念事業のことを書く気になったかというと、9月例会に出席して、岩倉市長の言葉の中から、「苫小牧青年団体協議会」というキーワードが出てきたからです。「日記」の原稿依頼を頂いてから、本当にたくさんの出来事と思い出のあった10年間のJCライフの中で、何に的を絞って書けば好いのか迷いに迷っていた時に、キーワードが入ってきました。
 この「OB徒然日記」の趣旨である、温故知新の精神はすばらしいと思います。私も改めて実感しました。そして出来ることなら、日記という寄稿だけではなく、ほんの偶にでいいですから、直接先輩たちから話を聞いてみてください。きっと「目から鱗」ハッと気がつくことが、いっぱいあることでしょう。自分もその立場だったときは、ちょっと鬱陶しいかったですけれどね。
 これ以上書いていくと、ますます「ウザい」OBになりそうですのでこれにて終了とさせて頂きます。乱筆乱文お許し下さい。ありがとございました。

古木先輩 本当にありがとうございました! JCのまちに対する想いや、JCのネットワークのすごさに、改めて感心させられるばかりです。
中でも松本零士さんや毛利さんとの繋がり、そして小・中学生3千人の来場者を呼び込むあたりは圧巻です! 現役一同さらに志高く持たなければなりませんね。
次回担当は、1992年卒業されました藤島豊久先輩です。
どうぞご期待ください。
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2009年08月13日

OB徒然日記 第15号

1996年卒業 山崎 肇

 JCについて何でも書いてください、と依頼をいただいてから今日7月25日まで、実はまったく一行も書いていません。一度ならず、頭の中ではあれこれ思い起こしてみましたが、どうも人に聞かせるほどのことはないのです。自分で行動して、自ら満足していることばかりで、書いて知らせるほどのことは見当たりません。
と思っていたら、ふと思い出したのが彼の熊谷卓先輩にもご同行いただいた、図書館調査ツアーです。これは私一人でしでかしたことではないので、同行いただいた方々に、今更ながらの感謝の意を込めて書いておきたいと思います。
 あれは、私が二度目の委員長を務めさせていただいたときです。もう20年も前のことになります。市立図書館の運営に対して提言する、との企画を立てその前提として他都市の状況を調査しようということになりました。対象地は何故か道外、仙台と八戸、そして青森ついでに函館ということにしました。その選定の経緯は覚えていません。いずれにしても、この4ヵ所を最短の時間、最小の費用で訪問することにしたのです。
 行程は夜8時頃発の北斗星で仙台まで行き早朝着、市立図書館を視察、折り返して八戸で下車、ついで青森に向かいここで一泊、夫々図書館を視察、翌朝青函トンネルを経て函館で視察、午後苫小牧に帰着という、車中一泊宿で一泊、雰囲気的に一泊二日というリーズナブルな旅でした。苫小牧駅で当時の渡辺健治理事長に見送っていただき、また餞別もたくさんいただき、懐も暖かく前途洋洋、勇躍旅の途につきました。
 同行してくれたのは、先にも書いたとおり政策室長の熊谷卓さん、委員会メンバーの橘さんと赤川さんでした。そういえば、赤川さん結婚おめでとう!
 正直なところ、どこの図書館もたいしたものではありませんでした。今でも思い出すのは、青森市図書館の隣が棟方志功記念館だったことと八戸の駅が町外れだったこと、函館の図書館が古い木造で貧弱だったことくらいです。
 ただ、どこの図書館かは忘れましたが、個人が不用になった本の交換会を企画していたり、開館時間を働く人のために夜九時まで延長していたりと、事前に読みたい本を頼んでおくと貸し出し可能時に連絡をくれたりと、様々に工夫をこらしておられ、そういうことを提言書の一部に記載したことを覚えています。
 百聞は一見にしかず、と言いますが、自らの目で視ると読むのとは大きく違い、本当にたくさんの情報を得ることができることを実感しました。また青森では熊谷室長の手配で一席設けていただいたのですが、ここで私は初めて「藤壷」という黄緑色の物体を食しました。その磯臭さと鮮やかな色は忘れることができません。
 さて、委員長として面白かったことに例会運営がありました。月二回の例会はJC運動の中でも非常に大きな意味をもっており、理事会や委員会と同様、これがなきゃJCじゃない、と言っても過言ではないものです。
 特に委員会一丸となって企画運営する手作りの例会は、多少の出来不出来はご愛嬌で、なかなか味のあるものでした。勿論、練りに練られた講師例会も悪くありません。テーマと人選を突き詰め、事前打合せを密にし、当日より多くのメンバーが出席するように努力する、ということになるとこれも大変なことです。ただトレーニングとして考えると、関われる部分が少ないような気がします。好みもあるとは思いますが。
 まあ、いずれにしろ例会企画案を理事会に上程するのは良い勉強になりました。趣旨から具体的内容まで、頭の中話の中では分りきったことながら、いざ説明するとなると表現力のなさを思い知る、ということの繰り返しで、何度も室長や副理事長に添削されてようやく上程。理事会では悪意善意の質問にさらされ、審議段階で否決は珍しいものの、変更も多くあり何度も再考しては書き直したものです。
 しかし、これもそれも全ては修練です。その繰り返しから友情も生まれ、奉仕の精神も育まれたのでしょう。建前だけでは生きていけないかもしれませんが、本音だけの人生はなんとも味気ないような気もします。人生の中で最も実践的なトレーニングの必要な時期、また考え方を確立させつつあるときに、JCで経験したことは実に有益でした。
 今でも少なからず元メンバーにおつきあいいただいていますが、あの頃の運動、行動の思い出一つ一つが共通言語のような気がします。
 だらだらと書いてしまいました。最後にもう一つ。あの頃、よく議論したことに例会やその他の事業出席は義務か権利か、というのがありました。
 私は、入会資格審査で参加意思を確認され肯定的な回答をしている以上、論理的には義務であり、しかし無理強いされ不本意に参加しても意味がないことから、感情的には権利だと考えていました。
 今は、出られるならできる限り出たほうが良い、というのが経験を踏まえた上での結論です。それは参加出席は義務でも権利でもなく、いろんなことに気がついたり、能動的に視て理解する「機会=チャンス」だと思うからです。
 各種大会や青年経済人会議、環道都経済圏会議、ブロック協議会、地区協議会といろんなところに出してもらいましたが、全く無意味だと思ったことはほとんどありませんした。行くまでは億劫でも、その場に至ると様々な情報を得ることができます。時間が許し経済的に融通がつくなら、参加することをお勧めします。ですが、時間が許さず且つさほど意味も感じないなら無理することもありません。自由意志で行動すべきです。誰かに強要されていやいや参加するなんてことは愚の骨頂だと思います。
ということで、これで筆を置きます。次は卒業10年を経て未だにJCへの思いが熱い男、全道大会主管の会議では結論が出た後で「これでいいのか!!」を連発して手を焼かせた、古木匡司さんにいやでもバトンを渡します。


山崎先輩、貴重なご感想ありがとうございました。JC活動の楽しい事だけが経験なのではなく、過去を振り返れば辛い事も経験になっている事が伝わりました。JCで辛い事でもたくさん経験していこうと思います。
次回は、山崎先輩よりご紹介を頂いた古木匡司先輩です。お楽しみに!!
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2009年07月10日

OB徒然日記 第14号

1990年卒業 熊谷 卓

 1982年の川田理事長の年、前期入会の私はその前年の1月に3度目の転勤で苫小牧に赴任しました。上の子が5歳で3番目の子が1歳の時です。前任者が会員という事で業務引継ぎの色彩の強い入会でした。1984年道南ブロック出向から始まり正副委員長、室長そしてブロックスポーツ大会の応援団長と、企業出向メンバーとしては破格の役割を与えられ皆様の協力を得て無事に卒業する事ができました。JCメンバーへの感謝の気持ちで一杯です。
 子供が生まれてから、自分は今度も何度か転勤して歩くに違いない。そうすると私の子供達には故郷(田舎)は存在しなくなるのではないかと思っていました。JC活動に最初はイヤイヤながら参画しているうちに、神社の例大祭・港祭り・3LOM合同サマーキャンプ・スケート祭り等々の各行事へのお手伝いの様子を帰宅してから子供向けにおもしろおかしく話して聞かせてやるようにしておりました。子供達が乳幼児から学童になる頃です。そして様々な街の行事に父親が参加している事を子供達が見て知っていれば、子供達にとって苫小牧は故郷になるかも知れない。故郷らしい思い出のある街に苫小牧がなるかも知れない。そんな思い出を作ってやる事ができたらいいなと思うようになり、後半は時間の許す限り各事業に参加するようにしました。そんな訳で私の11年間の苫小牧は9年間のJCの思い出と等号(=)で結ばれています。
9年間の思い出といえば・・・・創立30周記念式典での道内初のレーザービームによる演出とその最中の次男の交通事故(軽症)、大学誘致運動では全国の駒女短OGへの署名依頼と署名簿を駒大本部へ持参し苫小牧に4年生大学開設をお願いした事、環道都圏会議(道央10LOMによるブロックを超えたJC運動体)への4年間連続出向と10市町長を招聘してのサミット、名古屋での世界大会、海洋少年団全国大会、宇宙少年団(YAC)世界ジャンボリー(アメリカ)参加、現役会員数が160名近くになり道内2番目の大LOMになった事、そして何人かのメンバーの結婚式の発起人に名を連ねた事などたくさんあります。
 しかし残念な思いでもあります。現役メンバーによる大事件(最初の除名処分)や交通事故により仲間が亡くなった事です。
JC卒業の翌年サラリーマン生活にピリオドを打ち苫小牧を離れました。自分自身がまだ若くて飛んだり跳ねたりできるだけの体力があった時期、子育ての重要な時期の第一段階とピタリと重なった時期、それが私の苫小牧時代=JC時代でありました。
 現在私は札幌手稲区で建築板金業を営んでおります。苫小牧へは1〜2日は出向きますが、時間距離が短い割に苫小牧は遠い街になってしまいました。でも自宅の近くにある星置スケート場(アイスホッケー専用リンク)の駐車場に「室蘭」ナンバーの車を見かけると「あの車の中には、トレーニングの為にと苫小牧から子供を乗せて来たメンバーもいるんだろうな〜」と感慨深く見ております。


 熊谷先輩、貴重なご感想ありがとうございました。現役時代にものすごく頑張って活動されていた事に大変関心致しました。OB方々エネルギーを見習って、自分達も頑張っていこうと思いました。
次回は、熊谷先輩よりご紹介を頂いた山崎肇先輩です。お楽しみに!!
posted by OB日記 at 11:51| 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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