本日記は、2008年度、苫小牧青年会議所設立55周年を記念して企画いたしました。

 2008年度の基本方針にある、「人とのつながり」という言葉、そして、理事長方針にある、「古きを温ね、新しきを知る」という温故知新の精神をもってJC活動をしていきたいという願いが込められています。OB諸氏の皆様方に青年会議所への思いを熱く語っていただくきます。

 本日記はリレー形式で、OB会長の柏木先輩からはじまり、次の投稿者をご紹介いただきリレーしていきます。
メンバーの皆様、先輩達からのメッセージを胸にJC活動に邁進していきましょう !!

2017年08月25日

OB徒然日記第44号

OB徒然日 記第44号 坂本 将一 先輩

第53回地区大会苫小牧大会を主管して

 苫小牧青年会議所に入会した1995年は阪神淡路大震災や地下鉄サリン事件等が有り、政治的には村山内閣で混沌としており落ち着かない世の中だったと記憶しております。私自身その当時は社長就任2年頃であり、経営者というより現場でバリバリ働く個人事業主の状態でした。よってお祭りで3日間仕事を空けることなど出来る状態ではなく、スケジューリングも金銭的にも苦労したのを覚えています。そんな若者が在籍12年半のうち11年も理事会構成メンバーになり主管実行委員長まで務めるに至るとは人生わからないものです。この度は、久しぶりの北海道地区大会主管を来年に控え、前回の苫小牧主管大会からの歴史をひもときますので、現役の皆様に役立てていただければ幸いです。

 1990年代後半のLOMは好きトマ運動に代表される地域密着や足元を大事にしたJC運動や活動で、ブロックは出向者を育てる機関として認識され、地区や日本の事業にはあまり熱心に参加する状況ではなかったように記憶しています。

 2000年代に入りIT革命が始まり、第2次規制緩和が活発化し、地域分権(JCでは地域主権)が頻繁に議論され、そんな時代背景の中2001年LOMからおそらくは10年ぶり位であろう地区役員出向者を輩出する事となり、これが第53回北海道地区大会苫小牧大会主管につながっていきます。
 具体的には2001年、清野始先輩の出向のバトンを受け2002年には直前理事長の立場で地区の室長へ山口武宏先輩が出向することとなり、この年は2004年の地区大会に立候補するLOMがいない気配でありました。そこで山口先輩より2004年の地区大会主管に立候補したらどうかと助言をいだだき、2002年の理事長福井洋幸先輩の元、2004年以降に在籍する主だったメンバーと共に地区大会主管立候補するかしないかの大議論になります。当時の私たちの地区大会感は地区役員や地区構成メンバーのための地区大会であり、主管LOMは疲弊し、LOMのためにならない地区大会になっているから主管を希望するLOMが少なくなってきているという見解です(あくまでも当時の若者らしい意見なので当時の批判ではございません)。そんな地区大会感ですから、やったほうが良いやらない方が良い、やる自信がない等様々な意見が出ましたが、最終的にはLOMのため苫小牧のためになる大会そして北海道JCメンバーのためになる大会を目指し主管立候補をすることとなりました。
 次は立候補届出書を提出するために立候補の主旨を議論しましが、2002年は日経平均株価が7603円と最安値を記録し景気は見通しが立たず、将来への不安が広がる中、好きトマ運動のような地域的なJC運動だけではなく、より大所高所から北海道全体を視る視座がその当時の苫小牧やLOMに必要だということになり、その議論がその後のLOMにとって地域、北海道、日本の将来をしっかりと見据えバラランスのとれたJC運動へと進化する第一歩となったと感じています。
 2003年には地区大会主管実行委員長候補者として、地区に委員長として出向するのですが、地区の上程フォーマットやスケジュールに戸惑い、LOMとのあまりの差に困惑したのを覚えています。この年は2003年の地区大会主管に関する上程の過程と地区大会開催までの流れを見て肌で感じることができたのが一番の収穫でした。2003年の地区大会から北海道JCメンバーのための大会に徐々にシフトしていったと思います。例えば2002年以前の地区大会開催時は地区役員の宿泊先はHQもしくはその地域で一番良い宿泊施設でしたが、この年は宿泊施設が少ないのもあり、地区役員は地区会長含め全員がお寺に泊まりました。北海道JCメンバーへのホスピタリティーを示した事に感激した記憶があります。

 さてメインの2004年へと話は進むわけですが、この年の理事長は私の親友でもある渡邊武志君です。ご縁があり理事長と地区大会主管実行委員長となったわけですが、渡邊君が予定者の時で地区大会の年ではない時期に、しっかりと苫小牧やLOMのため理事長をやりたかったと僕にポツリとこぼした時がありました。この時に決意したのは、地区大会成功はもちろんのこと、2004年度は地区大会を言い訳にせず普段の年と変わらないLOM運営をして地区大会以外にも2004年の足跡を残すことでした。そういった意味では理事会構成メンバー≒地区大会主管実行委員会メンバーでしたのでこの構成メンバーには大変負荷がかかったことと推察いたします。その努力に対し改めて敬意を表します。

 北海道政や各自治体の財政難、少子高齢化、人口減、公共投資が減っていく中、官依存体質から脱却し民間主導の活力ある北海道を目指し、北海道開拓の精神を持って変革の種を蒔いた大会。大会中事故もなく、大会参加者には笑顔が溢れ、何よりもLOMメンバーの達成感溢れる解団式になり、蒔いた種が後年、地区大会主管立候補が増え、LOMからは地区担当常任理事を始め多くの地区役員の輩出、日本JCの褒賞でLOMの事業が最優秀賞をいただく等いろいろな芽を出せたことで第53回地区大会を主管して良かったと思います。

 何やら真面目につらつらと出来事ばかりを並べてしまいましたが、最後に現役の皆さまへ。
竹中工務店(創業慶長15年 実に400年以上前)、虎屋、山本山、月桂冠、皆が聞いたことがある100年以上続く企業。世界に100年以上続く会社が約3000社ありその8割が日本の企業です。伝統がある会社には必ず理念と誇りがあり、それを基に行動し続け、それを伝承伝達してきたからこそ長い間繁栄して来たのだと思います。
 理念と誇り、行動と伝承伝達を大切にしてください。成功したとか失敗したとか結果検証は大事ですが、何のために何をするかを決めて行動し続ける。その行動は結果がどうであれ現役皆様の糧に必ずなります。恐れず堂々と仲間と共に行動あるのみ。
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2017年05月23日

OB徒然日記第43号

OB徒然日記 第43号 長山 愛一郎 先輩

この度、突然携帯に知らない番号から着信があり電話に出てみると苫小牧青年会議所LOM運営委員会の玉川委員長とのことでした。          
北海道地区大会苫小牧大会当時のこと、現役メンバーに伝えたいこと等を話しをしてほしいとのことで2、3の質問に答えるくらいのことと思い来訪を了解しました。
実際に会って話しを聞いたところ原稿を書いて下さいとの依頼で大変な依頼を受けてしまいました。
しかしながら次回の苫小牧大会を成功させるという意気込みや情熱を感じ微力ながら参考になるならと思い当時のことを振り返らせて頂きます。

今から13年前の苫小牧大会、細かいことはほとんど覚えていません。
フォーラム部会の部会長として講師選びに大変苦労しました。元プロ野球選手の星野仙一氏から始まり様々な方に依頼をいたしましたが、なかなか決まらず最後は当時の渡辺理事長、工藤副理事長と私の3人で東京の潟Tラヤの更家社長に日帰りで依頼しに行きました。
そこで私たちの思いが伝わり、やっと決まったことを覚えています。
講師が決まると資料作りで、資料作りは細かいものも入れると100枚くらい作ったのを記憶しております。
資料が出来上がると上程で、まずはLOMでの上程。
各部会ごとの上程で決めることがたくさんありますからいつも1時、2時くらいまで会議をしていました。
LOMでの上程が終わりましたら今度は地区での上程です。
この場では、どちらでもいいじゃないかということをつついてきます。
最初はただの屁理屈を言われているだけじゃないのかとか、なんでわからないのだろうと思いました。
しかしその様な質問には意味がありました。
その案件に対してのこちらのこだわりや情熱、気概を確かめる為の質問であったとわかりました。
それまでは実際どちらでもいい変更ならば意見を考慮して変更してもかまわないというスタンスでした。
ですからこれでなければダメなんだ、これでなければ伝わらないんだという思いが不足していたんだと考えます。
それがわかったのが地区での上程でいつものようにつつかれていた時、工藤副実行委員長が地区の役員の前で大きな声で顔を真っ赤にして、これでなければダメなんだ、私達の思いはこうなんだと力説した時でした。
ちょっと前までもめていた案件が、それを境に地区役員全員がそれでいきましょうとなったのです。思いがあれば伝わるのです。
上程も通りリハーサルを行い、いよいよ大会当日です。
当日は十分にリハーサルを行い、また手の空いた者は他の部会に手伝いにまわり、お互いに協力しながら成功に終わることができました。
今振り返ってみますと大会当日よりも準備が大変でした。
しかしながら準備の時に作成した膨大な資料がここで大変役にたちました。
準備に手を抜かず皆で納得するまで話し合い念入りにしていけば必ず大会は成功します。

最後に、現役メンバーの皆さんが英知を結集すればすばらしい大会になると思います。そして、それを実現する為には行動する勇気、最後に必ず成功するんだ、大会に参加していただいた方々に私たちの思いを伝え必ず持ち帰っていただくんだという情熱をもって大会に挑んで頂きたいと思います。

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2017年03月10日

OB徒然日記第42号

OB徒然日記 第42号 笹嶋 隆廣 先輩

 2000年の夏に入会し、2011年の卒業まで、気づけばあっという間の私のJC生活でした。今までとは比べられないほど多くの人たちに会い、たくさんの素晴らしい友人と忘れられない思い出ができました。
 入会まもなくゴルフで八戸に連れて行かれ、毎週何度も飲みに誘われるもイヤという返事は許されない、大学のアイスホッケー部のような体育会系のノリの日々が数年ぶりに始まりました。いい大人が、いったい、これは何の団体なんだろう?と思う日々。そんな飲み会の連続から入ってしまったのですが、例会や理事会などでは一変して真剣に取り組んでいる。いったいどちらが本当のJCなのか・・・そんなことを考えながらのJC生活スタートでした。

 そんな私のJC生活で、特に忘れられない思い出と言えば、やはり2004年度に苫小牧で主管した地区大会がまず頭に思い浮かびます。JCって何だ? 地区大会って何だ? と、私はまだ理解しきれていないうちに地区大会を主管する話が決まり、よくわからないまま2004年度は喜多副理事長に誘われて総務室長、すなわち、地区大会主管実行委員会総務部会長を受けることになった私でした。当時の地区大会実行委員会は、坂本実行委員長の下、式典部会、懇親部会、フォーラム部会、総務部会と事務局という組織で構成され、辛くも濃くて楽しい一年でした。そんな2004年度の地区大会の舞台裏を少しだけ綴らせていただきます。

 2004年、理事長は渡辺武志先輩。毎月2回の理事会は、今のように資料を印刷したら100ページにもなることはなかったものの、本質をしっかりと議論する濃い内容が多かった。理事会終了後には坂本将一実行委員長が仕切る、理事会よりも濃い地区大会実行委員会が始まる。終わるのは早くて2時、3時。それが毎回。さらには臨時委員会まである。総務部会は縁の下で大会を支える屋台骨というイメージで、当初は5本の上程案件が気づけば最高で13本(最終的にはある程度まとめて10本?)となった。議論を重ねるごとに増える問題に、坂本実行委員長から「これ、どこの部会でやるんだ?総務か?」の問いかけ、いや、押しつけに近い依頼に、「なんで総務?」と当初は抵抗したものの、案件が増えるとだんだんヤケになり、気づけば「はい、喜んで!」と怒鳴り口調で答えていた私と喜多副実行委員長がいた。私たちが他の部会の質問をすると、話を戻すなと実行委員長に止められるようになり、自分たちの上程が終わると幸か不幸か途中で帰らせてもらえるようになったので、他の部会の案件の深いところは正直なところよく知らない。北海道地区の主管実行委員会でも、総務は簡単に終わらせろというアドバイスをいただいたので、上程というより報告程度だった。
 大会目前、苫小牧で行われた最後の主催実行委員会が終わり、その後の懇親会の某スナック店内では、気持ちが軽くなった渡辺理事長を筆頭に、汗だくの全員が裸にネクタイで肩を組んで大合唱するという、不気味でステキな光景があった。でも、何を歌ったんだ?

 総務部会は表に見えにくい所で地道に頑張っていた。大会当日は神事の設営、駐車場整理、バスの運営、宿泊管理など地味な作業の多い総務部会で、久保、尾野、亀谷委員長の下、委員会メンバーがきっちりと仕事をしてくれて私は安心していた。今でも忘れないのはナイト運営での久保委員長の素晴らしく鋭い動きで、各LOMメンバーを迷うことなく夜の街に送り出す様子は、他LOMからも絶賛されていた。
 当日の私はHQのグランドホテルニュー王子の一室に常駐することになり、地区大会全体のスケジュールを把握しながらもほとんど現場には行けず、とにかく大会が無事に進んでいてくれと祈るばかり。坂本実行委員長と中原事務局長は常にピリピリしているし、ホテル1階のエスカレーター脇ではJC以外のお客さんが通るにもかかわらず、宿泊担当がテーブルを置いて現金を数える異様な風景。Wi-Fiなんて概念すらほとんどない当時、メールを送りたいとHQに来ては私のPHSカードで通信しまくる人もいれば、夜中のHQではなぜか帯広JCのメンバー数名が誰かに怒鳴られている。その脇では、急遽作ることになったビデオを作成し終えた喜多副実行委員長が爆睡している。不思議な場所だった。

 私が実際の会場を見たといえば、大懇親会の大型テント設営が間に合わないとのことで手伝いに行ったことが一番記憶にある。数時間後には大懇親会が始まるのに設営が終わっていない。頼んだ5人ほどの作業員の働きが悪いのに口だけ動くので、昔の怖い親方のごとく、目に付く順に4人くらいに蹴りを入れて働かし、何とか時間までに設営を終わらせたということもあったような・・あの作業員たち、気合いを注入されてからは汗をかきながら働いていた。蹴りたくはなかったんだけどね。知らない作業員の皆さん、今さらながら、申し訳ない。

滞りなく地区大会は進み、大会の閉会宣言とともに、坂本実行委員長の目から涙が流れる。

CHANGE the Future

この大会テーマの下に、大きな不満の声を出さずにメンバー全員で頑張った日々から13年。メンバーの心を、苫小牧を、北海道を変える。そんな意味を持つテーマを掲げて行った地区大会だったが、どれだけの人の心に残り、変化することができたのだろうか。

 昨年、大会から12年目にして初めて当時の実行委員会メンバーが集まり、懐かしい写真や映像を見て大爆笑しながら大会を振り返りました。当時は口にできなかったことも、辛かったことも、今ではすべて笑い話。あのとき、北海道にまいた「変革の種」はどうなったのだろうか。次の苫小牧大会では、育った実を回収するのか、次の新しい種をまくのか。今後の苫小牧JCとメンバーだけでなく、北海道全体の発展に一石を投じる大会を、心から期待しています。

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2016年09月01日

OB徒然日記第41号

OB徒然日記 第41号 松本 義孝 先輩

 この度、OB徒然日記の依頼を頂きありがとうございます。このような機会を卒業しても尚頂ける事に感謝致します。依頼がありました委員長時代の思い出を気楽に書かせて頂きたいと思います乱文お許しください。
 さて、今から遡りまして9年前2007年に委員長をさせて頂きました。子供に関する委員会でして様々な事をメンバーと企画し実践した事は忘れられません。事業2回、例会2回のスケジュール、白老町のポロト湖でのキャンプ事業「集まれチャレンジキッズ☆」とハローワーク事業「中学生のハローワーク」この2つは今も私の中で忘れる事の出来ない思い出深い事業です。もちろん例会も辛くてめちゃめちゃ苦労しましたから結局の所、全てが忘れられない思い出です。と言いつつも忘れたい事もありますけどね(笑)
思い出せば事細かく様々な場面がありますが、今回は初めて理事者となったこの年の理事会経験の思い出を書かせて頂きます。
 委員長が理事会に出席するにあたり、重要な任務は議案を作り上程する事です。しかしこれが大変で、なにから手をつけ物事をどう進めて行くか迷っているうちに上程スケジュールの期日が来るのです。年頭書に予定を立てるものの企画立案時に行う調査に奮闘しているのに、まったく議案書が書けなくて本当悩みました。自分では、やっているつもりなのですがまったく前に進まない。まさに生みの苦しみです。そんな中、夜遅くまでこんな私に付きあってくれて教えてくれた先輩方や、ひたすら資料作りに励んでくれた委員会メンバー、常に協力して頂き毎日毎日助けてもらいました。悪戦苦闘、頭にあるのはJCの事、スケジュールの事、上程議案の事ばっかりでした。
皆で作り込みやっと出来た議案書で理事会に挑むも私の力不足で結果は散々でした。うまく言う事に気をとられ、相手から来る質問に反感し言いたい事もうまく言えず、想いを聞かれても伝える事が出来ませんでした。なにをどうしたら良いのか、文面を変える方法もわからなくなり何も出来ずに悩んでいました。しかし当時の室長、鈴木史郎先輩は「大丈夫、大丈夫!」と常に笑いながら声をかけてくれて本当に救われました。上役の方々からもたくさんの助言やテクニック、色々なアドバイスを頂きました。又、上程日の理事会が終わると居酒屋に行き、みんながビール飲みながら隣に来てくれて、議案の修正について話してくれます。「あそこを変えればいいじゃない」、「で、委員長はどうしたいの?」、「目的はなに?」良く言われました(笑)今となっては全てが懐かしいです。でもこの経験があったから、皆が支えてくれたから一年間耐えながらやりきる事が出来ました。あの年、委員長を受けてやりきると言う覚悟が自分を大きくしてくれると強く信じましたし又、自分を変える機会と前向きに考えるよう努力も致しました。
結果その年の除夜の鐘は格別の響きとなった事は今も忘れられません。やりきった想いは達成感となり自信に繋がりました。全てが満たされた感無量な一年は、私の次へのステップとなりました。
 あれから9年が経ち、あの時の経験が自分を変えてくれた肥しになっていると感じています。委員長の後は、室長4回、専務、副理事と理事者として7年間理事会に出席させて頂きました。達成感が次のステップへ自分を導き、行動を起こす事で様々な体験を生みます。そして更に継続していく事で、体験は生かされ自身だけの経験となって行きます。単純そうなサイクルですが繰り返し続けていく事は困難な事です。なぜなら取り巻く環境や突発的な問題、様々な事は容赦なく起きるからです。しかし会社に生かされ、仲間に助けられ、いつも家族に支えられながら10年間在籍出来た事は、現在の私の宝です。
 現在は、JC仲間に誘い誘われ自由な程にありがたい時間を過ごさせて頂いています。
又、入会した時は3歳と0歳だった子供も今は高校生と中学生となり頑張ってくれてもいます。もっぱら私は、休日となると趣味のランニングとロードバイクに夢中です。何事も前向きな行動が機会を生むと私はJCで教わりました。JC時代に学んだ前向きな行動と発想とでこれからも元気に生涯JAYCEEの気持ちで過ごして行きたいと思います。

 最後に現役の皆様へ
 JCはやればやるほど辛いと思う事が多いです。しかしその辛さは卒業すると自身の価値に代わります。入会動機や目的は様々ですが、入ったからには未来の自分を思い描き「YES」と「はい」で挑戦してください。
 以上、長々と書かせて頂きました事お許し下さい。現役メンバーの皆様、益々のご活躍を心からお祈りしています。このような機会を頂きまして誠にありがとうございました。

<LOM運営委員会より>
委員長を経験した大変さ、仲間との絆、JAYCEEに対する熱い思い、家族との絆など様々な経験をされた先輩から現役メンバーに対して、達成することによって自分の成長や気づきを改めて教えていただきました。
松本先輩ありがとうございました。
posted by OB日記 at 21:38| 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年05月13日

OB徒然日記第40号

OB徒然日記 第40号 小原 隆介 先輩

 この度、徒然日記を書かせていただくことになりました小原隆介と申します。私がJCに入会したのは「地域のために活躍したい」そんな格好の良い動機ではなく諸事情で自暴自棄になっていた自分を何とかしなければと思ったのが理由です。以前千歳のJCに入会していたがその時に先輩が叱咤激励をしてくれたことが心の底にあり、もう一度自分を正してくれる仲間が必要だと感じました。アカデミー塾の米田塾長は、私のダメなことは厳しく伝えてくれる、そんな親分肌の存在が有難かったです。同期の塾生とも友情が芽生え半年間の塾生活が終わった。塾長からは「お前ら俺を寂しくさせろ」と総務委員会に送り出された。パソコンを使いこなせない私にとって理事会の議事録作成は正直言って辛かったが少しずつ文字が打てるようになりました。当時の藤専務に、なぜ私が総務委員会に配属されたのですか?と聞くと「何も出来なそうだから」と笑いながら応えていた。確かにその通り、メガネを売ること以外は何も取柄がなかった。
 そんなある日、青山さんから「地域経済活性委員会の委員長を受けてほしい」と電話が入った。委員長の大変さも知らず「はい」と快諾した。まさに私の人生観を変える1年の始まりでした。早速、委員会の運営方針を作成して当時の廣澤副理事長、青山室長や委員会メンバーにレクチャーを受けて理事会の上程に臨んだが「委員長の想いが伝わらない」「何をやりたいのだ」と叩きのめされた。苦労して作った方針だが理事者の皆さんに納得のいく答弁が出来ない、自分自身が情けなくて懇親会の席で涙した。同期委員長の中でも一番上程が下手だった。再度レクチャーを受けて何とか審議を通過して委員長としてようやくスタートラインに立てた。安堵も束の間で4月例会の準備が始まった。その後、丹羽副委員長と日沼幹事をはじめ委員会メンバーが私を支えていただき納得のいく例会が出来た。しかし、その時期になってもインターネットを通して地域の情報を発信したいと思いはあったものの最終的なゴールを具現化すことが出来ず7月事業の議案書作りが始まった。協議の前日に議案書が出来上がり藤さんに確認をしていただいたが、しばらく議案書を黙読していた彼が口を開いた。「もう一度最初から作り直そう」えっ!耳を疑う言葉だった。するとパソコン上の背景、目的、効果、全ての文章を消し始めた。時計を見ると夜中の12時、頭が真っ白になった。それから皆で議案書を作り直して出来上がったのが朝の4時だった。結果的に再度作り直した議案書の方が私の腹にストンと落ちた。その後「行政や観光協会がフェイスブックを開設して地域資源の情報を発信して欲しい」という最終ゴールを掲げることが出来ました。九州の武雄市役所や網走市観光協会を調査の対象としたが伝手が無かった。松本専務が「武雄市役所を紹介して欲しい」と武雄JCの石丸専務に連絡を入れ、武雄市役所のフェイスブックシティ課を紹介してくれた。そこで改めて青年会議所の規模の大きさと友情を感じました。結局、武雄市役所と網走市観光協会に6名もの委員会メンバーが身銭を切って現地まで足を運んでくれました。特に武雄市の取り組みは素晴らしく地域資源はもちろん、災害情報までもが地域住民と情報共有が出来ていた。我々の熱い思いが伝わったのか、それらの取り組みを我々の例会で行政、観光協会にプレゼンしていただけるというのだ。
 あとは行政や観光協会に例会の参加要請をするのみ。当時の青山室長が「岩倉市長に前プレゼンをしよう」と言い出した。えっ?誰がしますか?「もちろん小原委員長がしなさい」青山室長も妥協を許さなかった。早速資料を作成して岩倉市長のところへ向かったが緊張して手と足が震えていた。結局、私の30分ものプレゼンに岩倉市長は真摯に耳を傾けてくれました。最終例会では、武雄市フェイスブック課の池田氏を講師に迎え、行政、観光協会、商工会議所の方とパネルディスカッションを行いました。岩倉市長の挨拶では「フェイスブックを前向きに検討する」と言って頂いた。正に嘆願していた言葉で涙が出た。我々が行動を起こさなくてもいずれフェイスブックを開設したかもしれませんが、有意義な情報を与えられたことは良かったと思っております。
 委員長時代を振り返ってみると、議案書も満足に書けない、理事会での答弁も下手、リーダーシップも満足に取れない、そんな私が一年を全う出来たのは、周りの人に助けらたからです。「大丈夫だから」と安心を与え信じてくれた吉本理事長、「靴底を減らして調査をしろ」と発破をかけてくれた廣澤副理事長、「そこの道に進んだら崖だ!」と私の方向転換をしてくれた青山室長、苦しい時もずっと私の側で見守ってくれた丹羽副委員長、「肉、美味しいですね」と言いながらプレゼンをしていた日沼幹事、やっていないフリして陰で資料作りをこなす片岡さん、アンケートをまとめてくれた近野さん、最終年度なのに頑張って支えてくれた牧田さん、限界を突破させてくれた藤さん、とことん現地調査に出向いてくれた矢農さん、地域の情報をくまなく調べてくれた渡辺さん、下支えをしてくれた畑谷さん、そして私の上程を通してくれた理事者の皆さん、以上の方々にこの場をかりて御礼を申し上げます。
 また、委員長の翌年に気づいたこともありました。「もう一度最初から作り直そう」と言った藤さん、この言葉は中々言える人が少ない。良い意味で壊し屋だ、下手したら嫌われる可能性もある。私なら、少しだけ内容を変えた方が良い、もしくはこれで良いじゃないと言う、周りの雰囲気を壊さないようにと無難なことう言う悪い癖がある。リーダーとして部下を迷わせ古い制度から脱却できないタイプだ。しかし壊し屋は自己主張をして改善を繰り返す、これはJCや企業にとっても大事な存在だと思います。そんな役を演じてくれたことにも感謝をしたい。
 最後に、2代目3代目後継者の方に聞いてもらいたい。親がいるから自分の地位が安泰している、私みたいな人です。先ずは自分のことを厳しく叱ってくれる人を一人でも良いので見つけて下さい。そして仲の良い人だけでつるまず自分の苦手な人でも目を背けずに向き合うことも修練だと思います。JCはそんな人間関係を学ぶ場でもあります。会社では自分より古い番頭さんがいる場合がありますが、そんな人生の先輩を大切にしていただきたいと思っております。
 以上、私が委員長時代に経験したことや気づきを長々と書かせていただきましたが乱文をお許し下さい。そして、今後の現役メンバーのご活躍を心からお祈りを申し上げます。
 最後までお読みいただき誠に有難うございました。

<LOM運営委員会より>
JCのすばらしさ、委員長の大変さ、仲間への感謝の気持ち、そして我々現役メンバーに対する熱い想いを書いていただき、誠にありがとうございました。先輩からの言葉を大切にしこれからの活動に活かしていきます。小原先輩ありがとうございました。
posted by OB日記 at 17:43| 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする